美大生×元自殺志願者


小さな駅のホームは人影もなく、くすんだ蛍光灯が薄暗く足場を照らしている。

目の前に広がる視界一杯の海は波の音だけを運んで、暗い夜に塗り潰されていた。

さっきからもうずっと、心臓が痛いほど脈を打っていて、妙な気分の高揚に視界が霞むようだった。

冷たい風が前髪を揺らして、そのついでと言わんばかりに綱吉はちらりと駅員室を見た。
灯りは点っているが駅員が顔を覗かせる気配はない。

汚れた時計がまた長針をひとつ進ませた。

はっとして線路の先を見れば、電車の光が駅に向かって走って来ている。

綱吉は息を飲み込んだ。

財布の中にあったお金で行ける所まで行こうと思ったら、たまたま中学のときに遠足に来た場所だった。大して思い入れはないけど、少し懐かしい気持ちにもなった。残った端数は募金箱の中に入れて、文字通り無一文になった。

電車の車輪がレールを滑る音が近付いて来る。風が静かに強くなる。

ヘッドライトがホームを照らす。地面に擦る様にして悴む足を一歩前へ出した。


心がひやりとした。


靴の底の砂利の感覚が妙に鮮明だった。

車輪の音しか聞こえない。

自分には誰もいない。誰も。

見開いた瞳にライトが強く当たり、色を透かす。

綱吉は引き攣るように息を吸った。冷たい空気が肺を刺す。ざあ、と血の気が引いた。
今死んだらきっと、みんな自分のことなんか忘れてしまうのだろう。

言いようのない焦燥感が縺れる足の動きを止めた。


潮の香りの強い風が吹き付けた時、コートから出たフードを遠慮もなく後ろに引っ張られた。
首が絞まって思わず小さくおえ、と声が漏れて、深くも考えず涙目で引かれた先を見上げると、すぐそこで男が綱吉を見下ろしていた。

ホームに滑り込んで来た電車の光が、表情のない男の端正な顔を流れるように照らす。長い睫毛の影も一緒に瞬きをした。

ぽかんと口を開けて見上げている綱吉の正面で、プシュ、と扉の開く音がした。


「この電車に乗りたいので死ぬなら次の電車にして貰えますか」


至極冷静な声に綱吉は思わずぽっかりと口を開けて、男はそんな綱吉をまるで紙屑でも捨てるようにぺっと落とした。

力の入らない足のせいでぺちゃりと尻餅をつく。

車両の中のまばらな人たちも、ホームに座り込む綱吉に視線も向けなかった。

長身の男が心成しか身を屈めるようにして電車に乗り込む。無関心な後姿を、車内の柔い光がそっと包んだ。

綱吉は呆然としたまま、あんまりな男に向かって半ば無意識に声を上げた。白い息が尾を引く。

「ほ、他に言うことないのかよ…!」

男は肩に掛かる程度の髪を揺らしてゆったりと振り返った。

「はあ?」

美形な顔をもったいないほど歪めて男は吐き捨てるように言った。


扉が閉まり始める。綱吉の心の中で何かがぶちぶちと音を立てて切れた。


閉まり掛けた扉の隙間に勢いよく飛び込んだ。
背中で扉が閉まる音がして、車内アナウンスが無理なご乗車はお止めくださいと見当違いの言葉を流したが、綱吉の耳に届くはずもない。
その勢いのまま男に飛び掛るが、男は腹が立つほど背が高く、決して健やかに育ったとは言えない身長の綱吉がぶらさがるようになってしまった。

けれども不意のことだったので、男は体勢を崩してその場に座り込んだ。ここぞとばかりに男に馬乗りになり、胸倉を掴み上げる。

「どうすんだよ…!」

寒さで鼻の頭を赤くした綱吉は大層怒っていたのである。

男が少しだけだけど、驚いたように目を見張ったが、綱吉は怒り心頭で気が付きもしない。

「はいじゃあ次の電車で、とか言える訳ないだろ・・・!!どうすんだよ!!完全に死ぬタイミング逃しただろ!!責任取れよ!!!」

目を見開いた男はとても珍しい色違いの瞳に光を走らせたが、すぐにとろとろと瞼を半分ほど落として生気を失くした。

呆れた瞳にはっと我に返った綱吉は、人々の痛い視線を体中に浴びていることに気付いて顔色を悪くした。

「とりあえず、どいて貰えます?」

溜息混じりの声に綱吉ははい、と呟くように言ってすごすご立ち上がった。

隣の駅まで地獄のような6分間を過ごす。



二両編成の短い電車がまばらに人を吐き出す。

同じ車両だった人たちは男と綱吉を交互にじろじろと見て行った。

綱吉は蹲りたい衝動を何とか抑え、男の後ろに付いてホームへ降りた。

「何で付いて来るんですか?」

両脇から眉毛を引っ張ってやりたくなるくらい眉根を寄せている男は、怪訝な声を出し見下ろしてくる。
綱吉は怒りでかあと頬を真っ赤にした。

「だ・か・ら!あんたが止めたから死ねなくなったんだろ!!」

「…」

男は無言で線路を指差した。長い腕が地面と平行にきっちりと伸びて、綱吉は思わず指先を辿って線路に視線を向けた。

「だから、もう死んでいいですよ。どうぞご自由に」

淡々と言って歩き出そうといた男の腕にむんずと抱き付く。

「だーかーらー!分かりましたじゃあ死んで来ますね☆とか言える訳ないだろ…!」

「だって、死ぬ気だったのでしょう?」

綱吉はだから〜!と足を踏み鳴らし、苛立ちで四方に散っている淡い色の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。

「それほど強い決意を挫かれたオレはもう死ぬ勇気すらなくなったんだってば!」

「それなら君は生きたいと思ってる。それじゃあ生きてください、どうぞご自由に」


「人間の皮を被ったバタリアンか!」

「例えが全然ピンとこないですよね」

すたすたと歩き出した男の腕にしがみ付くと、男は瞼を半分落として苛立つように振り返った。

「まだ何か?」

「何か?じゃないよ!オレはもう家もお金も仕事もないの!全部清算したの!!分かります?生きていけないの分かります!?」

「ホームレスでもすればいいじゃないですか」

「知るか!出来るか!!」

「それはもう僕の与り知らぬことです、鬱陶しい離せ」

「な、あ…!!」

男はちらと腕時計を確認した。

「妹が待っているんですよ」

「そんな理由でオレを止めたのかよ!?」

「はあ…?そんな理由…?」

苛立った男の目が更に凶悪に細められ綱吉は怯んだものの、ここでこの腕を離す訳にはいかない。
む、と眉を吊り上げて見せたが、すぐに情けなく眉尻を下げることになった。

男の長い指が綱吉の頬をおもむろに摘み上げたのだ。

「ひ、ひたひ…!」

「貴様もう一度そんな理由なんて言ってみろ。望み通り死なせるぞ」

胡散臭い紳士のような敬語が外れ、顔はまさに鬼の形相。

心のどこかでシスコン?と思ったが口には出せない。精神的にも、現実的にも。伸びた頬が赤く染まり始める。

本来の綱吉なら離してくださいお願いしますと懇願するところだが、綱吉も綱吉で気が立っているのだ。
背伸びをして男の頬を掴み返す。そして捻る。

男の長い睫毛がひくと怒りに引き攣った。

「はなへ」

「ほまへがはなへ」

じりじりと睨み合う二人の間を冬の冷たい風が吹き抜ける。

これはもう耐久レースかと思ったとき男が綱吉の腕を払い除け、意外なことに男も綱吉の頬を離した。
男は呆れたように白い息と一緒に溜息を吐き、腕時計に視線を落とした。

「…5分」

「へ…?」

「5分なら君の言い分を聞いてもいい」

返答を待たずに男は自動販売機に向かって長い足を進める。

綱吉はぽかんとしてからじんじんと痛む頬と涙目を摩って、とりあえずベンチに腰を下ろした。
戻って来た男はまた意外なことに綱吉の隣に腰を下ろすから、綱吉の方が些か警戒してしまった。

大きな手には余計に小さく見えてしまう缶を、綱吉は二度見した。

「…お、おしるこ」

自動販売機ではよく見掛けるけど、実際に買って飲んでいる人を初めて見たので思わず口に出す。

しかもこの人が?

第一印象だけで言うならコーヒーにタバスコとか入れて飲んでそうだ。言ったら頬を捻られそうだから絶対言わないけど。

「夏場はコンビニまで行かないと売ってないから不便なんですよね」

独り言のように言って缶を口に宛がった。

夏場におしるこホット。綱吉は無意識に頭を抱えた。理解出来ない。

「それで?君の言い分は」

面倒臭そうに促されて顔を上げると、男の薄い唇の上にあずきが付いていた。

顔は至って真顔なのに、口の上にあずきを付けている。

綱吉は怒りが込み上げてきた。

美形は何をしても美形なのだと改めて思い知らされる。自分なら間抜けにしか見えないだろう。

じわと眉根を寄せた綱吉に釣られるように男もじわと眉根を寄せた。

「何ですか?」

怪訝さと不機嫌さを隠しもせずに言った口元のあずきを見ている。

そう言えば昨日の夜、最後の贅沢をと回らない寿司屋で寿司を食べたきり、何も口にしていない。急にお腹が空いてきた。


綱吉はあずきを摘まむと口の中に入れた。


甘過ぎるくらいの甘さがじんわりと舌の上に広がって、思わず微笑む。

男は目を見開くと、横に滑るようにして綱吉と距離を取った。

気付くとベンチの端っこまで行っている。

「そ、そんなに離れることないだろ!?」

「自分の行動を思い返しなさい。誰でも離れますよね」

「や、だってあずき美味しそうで」

「後4分」

男は目の高さまで腕を上げておもむろに腕時計を見た。

「え!?あ、えっと…」

何を言おうと思っていたのかすっかり忘れた綱吉は、思い出すために動きを止めた。

沈黙が落ちる。

男の溜息も落ちた。

「大体君、本当に死ぬ気あったんですか?」

「な…っ」

「飛び込む前に準備運動する人間なんて初めて見ましたよ。ぴょんぴょん飛び跳ねて、よし、とか小声で何度も言ってましたよね」

「な、あ…!?」

綱吉はかあと頬を赤くした。

「見てたのかよ…!?」

「ええ。君の真後ろでね。言っておきますけどね、ホームの端に女性もいましたよ。一生懸命君を見ないようにしていて可哀想でした」

「誰もいないと思ってたのに…!」

「気付かない方がどうかしてますよね。あんな狭いホームで」

頭を抱えた綱吉に一瞥をくれて男は立ち上がった。

俯いた綱吉の視界の中に洒落たブーツが映り込んで、続いておしるこの缶が入り込んだ。

はっとして顔を上げると相変わらず男は憮然とした表情だけど、受け取れと言うように缶の底を綱吉に向けて差し出した。

綱吉は感動に瞳を濡らして、缶を受け取った。

「あ、ありがとう…」

ほんの少しだけ温くなった缶を両手で包み込むと、男は歩き出して行った。

口元まで缶を持っていって、でもあまりの軽さに片目を閉じて中を覗き、そして缶を振ってみた。

「空じゃんか!」

男はお構いなしにすたすたと改札に向かっているので、綱吉はくそ、という言葉と共にゴミ箱に缶を投げ入れ後を追う。

少しだけ振り返った男は顔を歪めち、と短く舌を鳴らした。

「なあ…!おま、舌打ちって!」

綱吉がムキになると男は足を速めた。綱吉が諦めるはずもない足取りで後を追うと、男は駅前に停車していたタクシーをこじ開けて中に入っていった。更に綱吉の追従を避けるために手動で扉を閉めた。運転手が少しだけ迷惑そうな顔をした。

男が不機嫌丸出しの顔で出して、と言っているのが分かって、綱吉は頭にき過ぎて通常では有り得ない行動に出た。


空気の入れ替えをしていたらしいタクシーの窓が開いたままで、そこから中に飛び込んだのだ。頭から。


男の膝の上にダイブして、そのままの体勢で迷惑顔を引き攣らせた運転手にへらっと笑った。

「出してください」

ち、と短く舌打ちをしたのが男だったのか運転手だったのか、タクシーは走り出した。



「何なんだ君は!何がしたいんだ!」

坂の多い街をタクシーが走る。

「だから!オレは責任を取って欲しいだけなんだよ!」

「責任責任って、君が勝手にしたことに僕が責任を持つ必要はありません!」

「はあ!?何言っちゃってんの!?乗せた時点でお前はもう責任を取る気あるってことだからな!」

「はあ!?そっちこそ何言ってるんだ!勝手に乗って来たのは君ですから!」

「はあ!?お前が挑発的な態度取ったのも原因のひとつだからな!」

「はあ!?君が!勝手に!乗って来たんだ!」

「痴話喧嘩は他所でやれ、ホモ共が!」

「はあ!?」

不意に乱入して来た運転手も大層ご立腹で、ミラーに映った顔が凶悪に歪んでいた。

「どこが痴話」

綱吉が前のめりに言い掛けたとき、隣で長い足が運転席を思い切り蹴った。運転手が前のめりになって、ビーとクラクションが鳴った。

はっと青褪めて横を向くと、男も凶悪に顔を歪めていた。

「どこが痴話喧嘩だ!」

男がもう一発蹴ると、運転手はぎろと音がしそうなほど後部座席を睨み付けた。
そして急ハンドルをきったかと思うと、強烈な蛇行運転を始めた。

「うわ、ぎゃ!」

体が軽い綱吉は宙に浮く勢いで座席に体を打ちつけまくった。そして理不尽なことに男は綱吉の髪の毛を掴み上げてバランスを取っている。

なんてことだ。禿げるから止めてくれ。

髪を守るべく男の腕にしがみ付く。運転手の気は収まらないようで、酷い角度で蛇行運転を繰り返す。

「止めろ!今すぐ降ろせ!」

男の怒りの叫びに車は急停止をした。ぐふ、と潰れた声を漏らして綱吉は座席に顔面から飛び込む。
うう、と無意識の呻き声を上げて蹲る綱吉をよそに、男はブランドものの財布から万札を抜き取ると、運転手に叩き付けるように押し付けた。

「お釣りは結構です」

運転手はぎろと男を睨むと、無言で叩き付けるように押し付け返した。
男はむと顔を歪め押し付けると運転手は押し付け返す。
無言の攻防を繰り広げた後、男は蹲る綱吉を車外に蹴落として自分も降りると札を車内に投げ入れ思い切り扉を閉めた。
運転手は開いた窓から札を投げ捨てると急発進した。
くそ、と男が呟くと、地面に転がった綱吉はそろっと指を伸ばして札に触れた。

「…じゃあこれはオレが」

男はむっと口を引き結んで綱吉の指先から札を取り上げるとポケットに捻じ込んだ。
綱吉もくそ、と呟いた。

ビービーとクラクションを鳴らして走り去るタクシーに男が石を投げそうになったので、綱吉は必死で止め、そして苦笑う。

「そんな怒るなって。運転手さんもちょっと虫の居所が悪かっただけだよ」

怒りを抑え込むように息を吐き出した男がはた、と動きを止める。

「そもそも君のせいですよね!?」

「はあ!?だから、お前があそこにいなければ」

「君があそこを選ばなければ」

「だったらお前がもう一本早いのに乗ってれば」

「それなら君がもう一本遅らせれば」

お互い語尾を言い切る前に重ねて言い合いながら坂道を上って行く。
埒が明かないと分かっていてもお互いに引けない言い合いを繰り返している内に、綱吉は急にへらっと笑ってふにゃふにゃと手を打った。

「そうだ、こうしましょう。オレ、バイトでも何でも取り敢えずお金を用意するので、ルームシェアとかして頂けたら〜」

「何で急に媚び諂ってるような態度を取るんだ」

「や、実際媚び諂ってるし」

「……普通そういうのを正直に言いますかね」

「だって事実だし…」

男は呆れたように歩く速度を落とした。

「大体君は死ぬつもりだったんですよね?だったら死んだらどうですか?」

「そんな砂場に飛び込むみたいに簡単に言うなよ」

「君の例えはさっぱり分からない」

「分かれよ」

「無理言うな」

今度は綱吉が溜息を落とし俯いた。白い息が尾を引く。

「…オレは元々意気地なしなの。一生に一度の決意を二度も出来るほど勇気はないの」

男はちらと俯く綱吉を見てから諦めたように瞬きをした。

「僕は家族と住んでるので」

「あ〜ご家族とお会いするの楽しみだな〜」

男は呆れ果てとうとう足を止めて深い溜息と共に瞼を落とした。

綱吉は期待の入り混じった瞳で一生懸命男を見上げている。
男は片目で綱吉を見てからまた溜息混じりに瞼を落とした。

「今両親は旅行に行っていて、家政婦も風邪で休んでいるので君の面倒を…、」

家政婦?と思っていると、男は何か思い付いたとように瞼を持ち上げて遠くを見るようにした。

そしてすぐに綱吉に視線を落として、はっきりと言った。

「そうだ。君、妹に遊んで貰いなさい」

遊んで貰う?

何かの言い間違いかと思っていたのだが、男はそうしましょうと一人で決めてすたすたと歩いて行ってしまった。

綱吉は些か疑問符も浮かんだのだが、どうやら家に上げて貰えるようなので嬉しくて迷わず男の後ろに着いて行った。


綱吉は生まれて初めて粘り強く交渉した結果、望んでいたことが叶った。


人生そう悪くないのかも、なんて少し前までのことすら忘れかけていい笑顔をしていて、不意に振り返った男に気味悪いと言われてやっぱり頭にきた。

2010.12.11