幼女凪注意

前を歩く男の踵を踏んでやるという地味な嫌がらせをして、その度に頬を抓り合ったりしながら辿り着いた家に綱吉は目を大きく見開いた。

次いでだらしなく口を開く。

坂の上に鎮座していた家は屋敷と呼ぶに相応しいほどの大きさで、門はきっと手動では開かないだろう。
今は夜だから見えないけど、昼間にはきっと海が見えて最高のロケーションだというのは何となく分かってしまった。

「何か馬鹿っぽいですよね〜」

やれやれというニュアンスを含む声に過敏に反応して、綱吉はくそと小さく呟く。この男と一緒にいるとくそが口癖になりそうだ。

硝子細工の洒落た表札には四人分の名前が書いてあった。姓は六道。

「お前の名前どれ?」

最早お前呼ばわりである。人見知りの自覚はあるが、この男の前だと自分の中の常識がぜんぶ外れていくようだ。初対面でこんなに人を罵ったのも抓ったのも何もかも、生まれて初めてだ。

両親と妹がいるというのは分かっているので、多分上から三番目。名前は骸。

けれど骸と思われる人物は小馬鹿にし腐った顔で(だって眉がハの字になっている)「さあ〜どれでしょうね〜」と言ったので綱吉も腹が立ち、またそこで諍いが起きた。野菜でも引っこ抜くように髪を掴まれた。禿げる。本当に止めてくれ。

骸の腕にぶら下がるようにして髪を守っていると、ささやかな音を立てて門がゆっくりと開いた。途端、骸の表情が柔和になる。

「僕の帰宅に気付いて凪が門を開けてくれたようです。まったくあの子は頭がいい上に可愛い」

よく出来た子だ素晴らしいなど綱吉を震え上がらせるようなことばかりを言いながら、綱吉をぺっと捨ててさっさと歩いて行ってしまう。
ちら、と表札を見上げると「凪」が一番下に書かれている。やっぱり名前は骸で合っているようだ。

ここまで来て置いて行かれる訳にはいかないので急いで後を追うと、門がゆったりと閉まっていく。
中に入ってみれば改めて敷地の広さを認識させられた。庭に噴水とか意味が分からない。

鼻歌でも歌い出しそうなほど急に機嫌が良くなった骸を逆に恐ろしく思いながらも、欧州を思わせる庭に見入る。点在する間接照明が幻想的でとても綺麗。

「見惚れるのは構いませんけど中に入らないでくださいね。夜は赤外線を張っているので引っ掛かると警察が来ます」

「せきがいせん!?」

そんなもの張っている家が本当にあるのか。見た目は綺麗だが中身は恐ろしい。骸みたいだなと思ってから綱吉はぱちりと瞬きをした。

「別に綺麗とか思ってないからな…!」


骸の鼻先をびしっと指差すと、骸の瞳が寄るようだった。

「はあ?そんな挙動不審だとセンサーが勝手に反応しそうですよね。警察が来たら来たで君を差し出すのに躊躇いはありませんが」

「な…!?そんなことしたらオレはお前の恋人だって言い張るからな!ただの痴話喧嘩だって言い張るからな…!!」

「は!?」

「え!?」

骸なら瞼を半分まで閉じて馬鹿にしてくるかと思ったのに、まるで予想もしてなかったくらいに目を丸くするものだから、綱吉まで目をまんまるくしてしまった。

妙な沈黙が落ちて、目を合わせたまま固まる二人の後ろを車が通り過ぎて行った。

そもそも考えてみたら「恋人」と言う必要性はまるでなかった。男同士なのだし。

きっとさっきタクシーの運転手が変なことを言ったからだと思ってみたが、二人の間に流れる妙な空気は風が吹いても消えなかった。

「骸さま」

救いの手のように控え目な可愛らしい声がして、はっと顔を上げるとそこには誰もいなくて、あれ、ときょろりと辺りを見渡すも誰もいなかった。

「おや、お出迎えとは本当にいい子ですね」

信じられないくらい柔らかい声に思わず骸を見上げて、鼻の下が伸びてそうな視線を辿るとそこには小さな女の子がいた。

「落ちてたので拾って来ました」

何のことを言っているのかと思ったが、骸の視線は綱吉に向いている。
文句を言うより早く、女の子が小さな声を上げた。

「わんちゃん?」

「…いや、人間…かな…」

「…しゃべった」

「うん、人間だからひたひ…!」

長い指がおもむろに頬を抓り上げる。

「口答えとは感心しませんねぇ」

じりじりする頬と同じくらいじりじりと痛い視線に、綱吉はまた怯みそうになるが負けじと頬を掴み返してやった。
どちらも譲らずに頬を抓り合っていると、「いたい…」と凪の声が聞こえて二人ともぱっと手を離した。

「ぜ、全然痛くないよ!」

えへへと笑ってみせるが頬は思い切りひりひりしている。最早口癖になっていそうな「くそ」を骸に向かって心の中で呟く。

「…?」

凪が大きな瞳で綱吉を見上げている。

じっと見詰める中に、何かしらの期待が込められている気がするのは気のせいなのだろうか。

「ほら凪。ペットに自己紹介しなさい」

「ペット!?」

「はい」

「や、はいとか言っちゃ駄目だよ…!?」

「ろくどうなぎ、4才です」

可愛らしく頭を垂れる姿は骸の妹とは信じ難く、「よく出来ました」とデロデロな声に酷いシスコンだな!とさすがに突っ込んでやろうと思ったとき、凪がぱたぱたと駆けて来て綱吉の足にぎゅうと抱き付いた。
驚いて目を見張っていると大きな瞳がまた見上げてきた。

ごめんなさいと意味もなく謝りたくなるくらい澄んだ子供の瞳は、明らかに強い期待を込めてきらきらとし、綱吉を見詰めている。

(…も、しかして本気でペットと思ってるのかな…?)

そうじゃないだろうなとどこかで分かりつつ、じゃあ一体何の期待なのかはその時は分からなかった。

「おやおや、凪は随分とこの下僕が気に入ったようですね」と地獄から響いてきそうなほど低い声が隣から聞こえてきた。


凪は綱吉を気に入ってくれたようで、子供用のメイクセットでメイクをしてくれて、お気に入りのリボンまで貸してくれた。

綺麗なピンクのチークをブラシでくるくると綱吉の頬に付けて、リップの色も慎重に選んでいる。

四方に散った髪をレースのリボンでちょこんと結び、男のなのに化粧をしている様はさぞかし間抜けだろう。
間抜けだろうけど、凪は表情が乏いのだがとても楽しそうだ。何だか綱吉まで嬉しくなってきて、ついさっきまで本当に死のうとしてたのか自分自身でさえ疑問に思えてきた。

そう思えてきたのだが、酷く疲れた。

凪の相手に疲れたのではない。むしろ凪が自分で遊んでいる姿は癒しそのものだ。

何が疲れたかと言うと、リビングの扉の隙間にだ。

リビングは綱吉が前に住んでいた部屋の10倍以上はあって、更に天井も高い。家の中もほこりひとつなくとても綺麗で、ショールームにありそうな家具ばかりだし落ち着かない。


けれどもそれも原因の一部に過ぎない。


一番かつ最大の原因はリビングの扉の隙間。

正確には扉の隙間から見える骸。

電源の切れているテレビの画面にその姿を認めたとき、悲鳴すら上げられなかった。

怨念そのものみたいな顔をした幽霊が出たかと思ってびくんと体を引き攣らせ、凪の玩具を手で弾いてしまったのだが幸いにも壊れないで済んだし、凪は綱吉に貸すための玩具を選ぶのに一生懸命だったので気付かなかったようだ。

すぐにどこかで見たことがある顔だと気付いてそれが骸だと分かるまで数秒。
骸と分かればだらしない顔で遠くを見るしか出来なかった。

凪と仲良くしているのが気に入らないのだろう。
だったら一緒に遊ぶなりすればいいのに骸は怨念に満ちた目で隙間から綱吉を凝視している。
凪がそちらに目を向けそうになったので思わず「見ちゃだめ!」と止めたほどだ。

一体何が目的なのか。凪にリップをぐるぐると塗られながら考える。

恐らく凪が楽しそうなので止めるのは憚られているのだろう。だから怨念はすべて綱吉に向く訳だが理不尽極まりない。
だが家に上げて貰った身としてはここは我慢かと思う。野宿をするにはあまりにも厳しい季節だ。

ある意味身を焼くような視線に悶々としていると、凪はスケッチブックを広げ始めていた。

「おなまえはなんて言うの?」

「え!あ、つなよしだよ。さわだつなよし」

つなよし君とぽそと呟いて、凪はスケッチブックにペンを走らせた。 

もう字が書けるのかぁと感心しながら覗き込んで、綱吉は飛び出そうなほど目を剥いた。

「な…!」

「合ってる?」


そこには漢字で「沢田綱吉」と書かれていた。


「大正解なんだけど…っえ…!?マジ!?オレなんて中学まで網吉って書いてたんだけど…!?」

「にてるものね」

「分かるの…!?!?」

とにかく凄い!と言う言葉しか出てこなくて目が飛び出しそうな勢いで繰り返した。凪は柔らかく頬を染めてからそんな綱吉を見上げて「もっと書ける」と字を書き始めた。

「達筆だね…!?」

「たくさん練習したから」

「いやいやいやいやいや練習してもこんなにならないよ!?」

凪が書いた字は「六道凪」、自分の名前で、留め払い直線の湾曲まで筆で書いたように整って綺麗だった。

自分とは脳のつくりが違うのだろかと真剣に考えていると、見上げてくる視線を感じて視界を落とす。
凪は褒められたのが嬉しいようで周りにほわほわとお花が浮かんでいそうな表情で綱吉を見上げていた。

綱吉はぱちと瞬きをして微笑むと、凪の頭を柔らかく撫でた。

「オレも、凪ちゃんみたいな妹が欲しかったな」


綱吉は微笑みながらそっと睫毛を伏せた。

(…そうしたらもうちょっと、違ってたのかもな)

すくっと立ち上がった凪のスカートが揺れる。どうしたのかと見遣っていると、凪は綱吉に向かってふくふくしている腕を伸ばした。

「だっこ?」

凪がこくんと頷く。
ゆるゆると笑顔を滲ませていった綱吉は、最後はにっこりと笑って両腕を広げた。


小さな体温を抱き止める気持ちでいたのに、飛び込んで来たのは自分より大きな背中だった。


「いって…!!!」

綱吉の膝の上に遠慮もなく座った骸は気を遣う気は欠片もないようで、全体重を掛けてくるので膝が潰れそうに悲鳴を上げている。
骸はスリムだが身長があるのでそれなりに体は重い。

足全体に骸の温もりが広がって何とも言えない気持ちになる。近い背中からも温もりを感じ始めて何とも言えない気持ちに拍車を掛ける。

「…だっこ」

「は僕がします。嫌ですか?嫌じゃないですよね」

強引な問い掛けに骸に隠れてすっかり姿が隠れた凪が頷く気配がした。

「今の誘導尋問だ!」

膝が潰れそうになりながらも抗議の声を上げると、肩越しにじわじわと睨み付けてくる骸の視線と目がかち合った。

骸は遠慮もなく凪を抱き上げたので凪の体重も足に掛かり、綱吉は膝の代わりにうぐと潰れた声を漏らした。

突き飛ばしたいがそうすると凪まで突き飛ばすことになるので、目の前でちらちらと揺れる伸び掛けの襟足をぐいと掴んでやると肩越しに見える骸の睫毛がひくと引き攣ったのが分かった。

骸が睨んでくる反対側から凪の大きな瞳が覗いていて思わず二度見した。やっぱり期待に満ちたような目で綱吉を見ている。

何だろう、と思いながら骸の襟足を引っ張って
無言の攻防をしている最中に、綱吉はふとテレビに映る自分の姿を見付けて愕然とした。

男を膝の上に座らせて、その男の腕の中には小さな女の子がいる。


何だこの状況。仲良し家族か。


骸とテレビの画面越しに目が合って、同じことを思ったのか一瞬にして口を不機嫌に引き結びすっと立ち上がった。

「凪、もう遅いので寝なさい」

「はい」

(機嫌が悪くなりたいのはこっちだよ…!)

「ツナ君おやすみなさい」

じんじんする足を擦りながらくそと呟いた心は凪の声で吹っ飛んだ。
はっとして見上げると凪が小さく手を振っているので、綱吉も途端に笑顔になった。

「この男の本名は下僕ですよ。ゲボクンとでも呼んであげなさい」

「おやすみなさいゲボクン」

「うん。ツナ君って呼んでね、ゲボクンとか言っちゃ駄目だよ」

骸が肩越しに鼻で笑う。
鼻で笑う姿がこれほどまでに似合う人間を未だかつて見たことがない。

妹が可愛いなら変な言葉を教えるなとぷんぷんしながら凪の玩具を片付けていく。

(何だよゲボクンって)

じわ、と滲んだ笑いに抵抗して唇に力を込めるが、またじわと滲んでくる。また力を込めれば唇の体操のようになっていて、堪えられずぶっと吹き出したとき、またテレビの画面に怨霊骸を見た。

びくっと引き攣った手から飛び出したおままごとセットの人参が、骸の足元まで転がっていく。

骸は流れるような動作で人参を指先で止めてそのまま拾い上げた。

「粗末にしないでください」

「ごめん。でも音もなくぬぼっと立ってたら誰だってびっくりするよ」

言いながら片付けをしていると、骸も憮然とした態度で片付け出した。

「僕の方がびっくりしましたよ。凪に変なことしないで貰えますか」

「変なこと?」

「無理矢理抱き上げようとするなんて変態ですか?」

「はあ!?どこが無理矢理だよ!?」

「挙句凪の玩具見てにやにやしてましたよね」

「お前のために言ってやる。お前のそれは被害妄想だ」

「被害妄想?」

「あ、自覚ないんだ。そうだよね自覚あったら控えるよね」

「よく分からないこと言いますよね」

「お前がな。…凪ちゃんだっていつか彼氏作ったりするんだよ。そういうときお前がそうやってぐちぐち言ってると「きもーい」「マジうざーい」とか言われちゃうぞ?」

積み木を摘まむ長い指がぴくりと動いた。
睫毛が微妙な空気を孕んで揺れる。骸もどこかで分かっている、そんなような動きだった。

ちょっと言い過ぎたかなと眉尻を下げた綱吉の顔面にクッションが叩き付けられた。

「ぶっ」

積み木じゃなくてよかったと思いつつも地味に痛い。

「バスルームは6つあるので好きな所を使ってください」

地味にでも何でも痛かったので抗議してやろうと眉を吊り上げたところに言われた言葉に、綱吉はきょとんと瞬きをした。

「え?何が?」

「だから、バスルームは好きなところを使ってください」

「何が6つなの?いって!」

綱吉の耳を引っ張り上げて眉根を寄せた。

「頭も弱ければ耳も聞こえないのか。バスルームは好きなところを使ってください」

バスルームが6つもある家なんて初めて聞いた。
言葉を理解出来なかった訳ではない、その事実を理解出来なかっただけだ。

「ですが、母親のバスルームを勝手に使うと問答無用で回し蹴りなので気を付けてください」

解放された耳先は淡くピンクに染まっていて、綱吉は緩く摩って痛みを散らしてからはっとした。

「お前大丈夫か!?」

「…君が大丈夫ですか?」

「お母さんの暴力が原因でお前の性格がそんなんなっちゃったとか!?」

必死な綱吉に反して骸は緩く瞬きをした。そして淡々と言葉を紡ぐ。

「両親は今、20回目の新婚旅行に行ってます」

「へ?」

「いつも僕と凪を連れて行きたがるのですが、たまには二人きりの方がいいと思うので何かと理由を付けて行かないことにしています。見ているこちらが恥ずかしくなるくらい夫婦仲はとてもいいです。僕も凪も同じくらいの大切にしてくれているので、両親の愛情を疑ったことは一度もありません。ご覧の通り経済的にも恵まれていますし、不自由を感じたことはありません。僕は容姿端麗頭脳明晰才能にも溢れ、爪の先まで完璧なのでコンプレックスはひとつもありません。まぁ強いていうなら僕があまりに完璧な人間過ぎて、僕の前に来るとみんな畏まってしまうところくらいですかね。とは言え僕は人と接するのがあまり好きではないので、これもまた備えられた才能ですよね」

「なんか腹立つな…!!!」

息継ぎをしているのかも怪しいくらいに一気に口を開き、それでも流れるように言葉を並べた骸は、長い睫毛の下で何だか腹が立っている綱吉に一瞥をくれた。

「なので、何も知らないくせに家族を悪く言うのは止めて貰えますか」

リビングの一角に家族写真がたくさん飾られていた。
どれもが幸せそうで柔らかくて、嘘も偽りもなかった。

はっと睫毛を瞬かせた綱吉はゆるゆると瞼を下げていって、最後は寂しそうに睫毛を揺らした。

「…ごめん」

手元を見詰めるように俯いた綱吉はどこか泣き出しそうにも見えて、骸は瞳を揺らすと静かに立ち上がった。

「僕は毎朝5時に起きてジョギングしているので君も来なさい」

決定事項を告げるだけの抑揚で言われれば、綱吉はみるみる内に瞳を見開いた。

「や、無理無理無理無理!」

骸は鼻を鳴らすとリビングを出て行こうとしたので、綱吉は慌てて追い掛けた。

「無理だよ、ジョギングなんて…!」

「走るだけですよ?」

「だからそれが無理だって言ってんじゃん!!社会人の体力のなさ舐めんな!」

階段を上り始めていた骸はひたと足を止めて怪訝な顔で振り返った。

「何で社会人が出てくるのですか?」

「だから、オレが社会人なんだってば」

「……は?学生では?」

「オレもう24歳なんだけど」

「年上!?」

目を剥くことなんかあるのかというほど冷めた表情ばかりだった骸の目を剥く顔を見て、綱吉も目を丸くした。

「…え?お前はいくつなの?まさか未成年とか言わないよな?」

「…19ですけど」

「未成年かよ!!」

すでに完成されたかのような骨格に常に上からの態度なので、まさか自分より年下とは思わなかった。

けれどそれは骸も同じだったらしい。

確かに綱吉はラフな格好をしているとたまに学生に間違われることもあるし、屈辱的なところでは女の子に間違われたこともある。

お互いを未確認生物でも見るような目付きでじろじろと眺め合いながら階段を上って行って、骸ははたと足を止めた。

「何でついて来るんですか?」

「あ〜…疲れたから寝ようかと思って…」

「適当にその辺で寝てください」

本当に適当に階段の辺りを指差してしらっとしてる骸に怒るでもなく、綱吉はうろうろと視線を彷徨わせた。

「…誰もいないのってちょっと、こ…怖いかな〜なんて…」

「一人ではないですよね。今目の前に人間いますよね」

「や…この家広いからさ、わざわざ散り散りになって寝ることないと思うんだよね…」

「言ってることおかしいの分かってます?」

「あのさ、お前の部屋も広いんだろ…?隅でいいから貸してくれない…?」

「どう貸せばいいのかまるで分からないのですが」

「な…!お前、部屋の隅なんて4つもあるだろ…!その内の一隅貸してくれてもいいじゃん!」

「そんな単位初めて聞きましたよ。よくそんな笑ったり怒ったり出来ますよね、情緒不安定か」

情緒不安定なんて言われて頭に来たけど、呆れて言って歩き出した骸の後ろにそろそろとついて行く。

「…」

瞼を半分落として振り向けば綱吉はえへへと照れたように笑うので、骸は深い溜息を落とし、年上ねぇと少しも納得していない声を漏らした。

「…まあ、いいですよ。邪魔さえしなければ」

「邪魔?」

骸は瞼を半分落としたまま綱吉を見遣り、廊下の途中の部屋の扉を開けた。

了承は得られたので遠慮なく骸の後について部屋に入ると、どこかで嗅いだことのある懐かしいような匂いがした。

目に飛び込んできた光景に、綱吉は思わずあ、と声を漏らした。

「ここは絵を描くために使ってます。寝室とバスルームは隣にあります」

淡々と言った骸を丸い目で見上げてから綱吉はまた部屋に視線を戻した。

絵具の匂いに縁取られて広く白い部屋の中央にはキャンバスが置かれている。白いキャンバスはまだ未完成で、並べるように置かれている写真の風景を再現し始めている。

本当にこうして絵を描くんだ、と当たり前のことを実感してそして、ほんの少し、昔のことを思い出した。

入り口に佇んだままの綱吉を置いて、骸はキャンバスの前に腰を掛ける。

「…入らないんですか?」

怪訝な声にはっとして綱吉は慌てて扉を閉めた。摘まみ出されたら本当に困る。

綱吉は改めて部屋の中を見渡した。月明かりだけが部屋を満たすような静けさの中、壁伝いに並べられた小物を博物館に展示されている品でも見るように感慨深く眺めていると、テーブルの上に果物が置いてあった。


てらと光りを乗せる赤い林檎はさながら禁断の果実のように魅惑的で、綱吉は思わず喉を震わせた。


「これ食べていい?」

「それはモチーフって、返事を聞く前に食べるな!」

部屋に瑞々しい林檎の香りが溢れて、綱吉は口をもぐもぐさせながら振り返った。

「ごめ、戻しとく」

もぐもぐしながら歯型のついた林檎をテーブルの上に戻すと、骸の長い睫毛がひくんと引き攣る。
それを見た綱吉は林檎をそっと回して骸から歯型が見えないようにするので、骸は溜息と共に項垂れた。

「…食べていいですよ。むしろぜんぶ食べろ」

「ありがとう」

綱吉は少し申し訳なさそうではあるが、遠慮なく林檎に噛み付く。


白い歯が、赤い皮の上をゆったりと噛み下げていく。


しゃり、とささやかな音と共に果汁がじゅわりと表面に滲んで、そっと綱吉の口の端を伝い、指を濡らした。


甘酸っぱさに柔らかく目を細め、けれどとても美味しそうに睫毛を落とす。


再びゆったりと開いた瞼の下の瞳は水に濡れ、淡い茶の色はまるで甘い蜜のようだった。


その動作のどれもを、骸の瞳が捉えていた。


ただじっと、綱吉を視る。


綱吉の瞳が視線に気付いて緩やかに骸を見遣った。


不思議そうに淡い色が瞬きをする。


「お前も食べたい?」


骸は綱吉が見ているのに今気付いたように瞬きをした。そしてすぐにすいと視線を逸らす。

「要りませんよ、君が齧ったものなんか」

何だと!と憤慨する綱吉を完全に無視して、骸は作業に取り掛かった。

パレットの上に新緑の色が乗せられる。

白い指先に馴染むような筆がキャンバスの上を滑る。

綱吉はもぐもぐと口を動かしながら、立ったまましばらく骸を眺めていて、それに気付いた骸が遠慮もなく眉根を寄せる。

綱吉は骸が文句を言いだす前に口を開いた。けれどもその頬は遠慮がちに染まっていて、骸は微かに目を見張った。

「あ、あのさ…絵を描くところ、見ててもいいかな」

どこか照れ臭そうに言って、それを隠すように綱吉は床に腰を下ろした。

「絵を描いてるところってあんまり見られないし、好きなんだ、そういうの見るの…」

恥ずかしそうな視線は手元の齧った林檎に注がれていて、瞳を揺らした骸は緩やかに視線をキャンバスに戻した。

「…邪魔しなければいいですよ」

綱吉が嬉しそうに視線を上げた頃には、骸は平然と前を向いていたので視線は交わらなかった。

「そこの棚に毛布が入っているので適当に使ってください。床暖房でも冷えるときは冷えるので」

あまりにもあっさりと表情も変えずに言ったけど、綱吉は流すことが出来なくて緩やかに瞬きをしたあとにふんわりと笑った。

綱吉が柔らかく笑う気配がしたので、骸は益々前を向いたままだった。

引っ張り出した毛布に包まった綱吉は、絵を描く骸を見詰めていた。


淡い夜に沈むような部屋には筆の滑る音だけがする。

どこか懐かしい気持ちにもなって、綱吉は随分と久し振りに柔らかい気持ちになった。


こうして繰り返していけばいつか、心の大きな棘も柔らかくなるのだろうか。


涙さえ滲み、いつの間にか綱吉は眠っていた。閉じた睫毛の端から涙が落ちる。


深い眠りも随分と久し振りで、浮遊する意識の中で「図太いのか何なのか」と、骸の呆れた声を聞いた気がした。



けれども掛け直された毛布の温かさは確かだった。



2010.12.30
禁断の果実を、たべた