水分を吸ったトレーニングウエアとスニーカーに砂がくっ付くのは道理で、とても重く感じる。
骸ももう走ることを放棄して、綱吉の前を気だるげに歩いている。
「言っておきますけどね」
国道に上がる階段を上りながら、骸が少し振り返って眉根を寄せている。
「僕が頭脳明晰なのは事実ですから。僕はもう大学を卒業しているので」
「へ!?大学生だろ?出掛けにオレのせいで課題をやり直すことになったとか意味の分からない因縁付けてグチグチブチブチグチグチ言ってたじゃん」
「グチグ…そんなに言ってませんよ。君のせいなのは事実ですから。僕は凪が生まれる前に大学は卒業してるんですよ」
「年誤魔化してたのか!やっぱりな、オレより年下とかありえないたい!」
冷えた耳をぐいっと引っ張られて、綱吉は思わず涙声を上げた。
「僕は19歳です。海外では飛び級制度がありますからね。優秀であれば年齢関係なく大学も卒業出来ます」
そういうことですから、と自慢するというよりは事実を突き付けるような強い語調で言って、骸はまた階段を上る。
綱吉はじんじんと痛む耳を摩って後を着いて行った。少し歩いたところで骸が不意に立ち止まり、おもむろに手を伸ばした。
「ちょっとここで待っていてください」
「ぶ」
口で言うだけでいいのに顔面を鷲掴むようにして綱吉を押し留める。
文句のひとつでも言ってやりたかったけど、骸はあっという間に白い階段を上って行った。
白い階段。
辿るように見上げるとそこにはレストランと思しき建物があった。
海沿いに似合う白い建物に、ヤシ科の固い緑が映える。夜は火が灯るだろう器具が点在していた。
骸が外廊下を分かり切った足取りで進んで姿が見えなくなる。どうやら裏口に回ったようだ。
綱吉は何も分からずにただぽかんと見上げていた。
海風が吹いて濡れた足元が酷く冷たくて小さく身震いした後、視線を下げた。見て確認するまでもなくウエアもスニーカーも濡れて色が変わっている。
砂の感触が気持ち悪いな、と思ったとき、下げられた視界の中にペットボトルが映り込んだ。
反射的に顔を上げると、骸が仏頂面で小さなペットボトルを差し出している。
何も考える間もなくオレンジ色の蓋のボトルを受け取ると、とても温かかった。
(…紅茶)
どうぞ、と抑揚のない声が掛かって骸の方を見るけど、骸は綱吉に背を向けて歩き出している。
親しみのある商品名の紅茶は開けるとふんわりと柔らかい香りを散らして、喉を通る甘さに思わず口元を綻ばせた。
気付けば喉がひっつきそうなほど乾いていて、沁みる紅茶が酷く美味しかった。
はっとして骸を見遣ると、狭い歩道の先で骸は赤信号を待っていた。すぐ横を車が一台走り抜けて行った。
排気ガスに髪を靡かせてから、綱吉は青信号で歩き出した骸の後ろを慌てて追い掛ける。
「あ、あのさ…もしかしてこれのために…?」
横に並んで歩いて控え目にペットボトルを持ち上げると、骸は綱吉を一瞥して鼻を鳴らした。
「まさか。そんなことは起こり得ませんね」
「そんな活舌よく否定しなくてもいいだろ…」
まったく何なんだよと小声で文句を言いながらも、綱吉は活舌よく全否定されたことは大して気にしていなかった。
だって何だか掌が温かくて。
「両親がいないときはいつもあのレストランに3食届けて貰ってるんです。一人分増やして欲しいと言いに行っただけです」
「!オレの分!?」
「…要らないんですか?」
「要る!ありがとう!」
嬉しそうに足取りが軽くなった綱吉がにこにこと骸に笑いかけるので、骸は居心地悪そうに眉を緩く寄せる。
楽しそうに振り返った綱吉の視線の先で、白いレストランが薄明るくなってきた空の色に溶けるようだった。
そしてそのレストランの風景に見覚えがある気がして、綱吉はあ!と短く声を上げた。
「な、もしかしてあれ有名なイタリアンじゃない!?テレビとか雑誌で見掛けるんだけど!」
興奮気味に腕を揺すってくる綱吉の視線を辿って同じようにレストランを見た骸が、ああとさして気のない返事をした。
「一年先まで予約取れないって何かに書いてあった!」
そういえばそうかもしれません、と大したことがないように言って、骸はまた歩き出した。
「顔馴染みなのでそういう意識を持って行ったことはなかったですね」
綱吉は驚いたように目を輝かせて骸と白いレストランを交互に何度も見た。
「デリバリーとかやってるんだ」
「やってませんよ。融通を利かせて貰ってるんです」
「へ〜やってるんだ〜いてて!」
「やってないと言ってるでしょう!」
冷たい耳は引っ張られると千切れそうに思えてしまう。そんな耳に骸は容赦なく「これは飾りか!」と暴言を吐く。
綱吉にとって骸を取り巻く環境は想像も付かないものだから、言葉は聞こえていてもどうしても脳ミソが理解してくれない。
世界が星を並べるようなレストランと顔馴染みで融通が利くなんて、どうしたってよく分からない。
綱吉は耳を摩りながら骸の横に並んだ。
アスファルトにぺたぺたと海水の足跡を並べながら坂道を登って行く。
「これまでの発言ぜんぶ、お前じゃなきゃ素直に凄いと思うのに」
「どういう意味ですか」
長い睫毛のしたから綱吉を睨むけど、綱吉は別に〜と腹の立つ言い方をするものだから、また掴み合いが始まった。
綱吉の頬が三角に伸びたとき、ゆったりと光が辺りを包んだ。
白い頬が光りを孕む。
光と影が競るように伸びて、綱吉は目を見開くようにして海に目を向けた。
地平線に太陽の光が伸びて一筋の線になっていた。
綱吉の瞳がゆるゆると光りを弾いて、骸はそんな綱吉の光が揺れる睫毛を見ていた。
そうしている間にも丸く形を露わしていく太陽に、そっと持ち上げた指先と指先を重ねて、綱吉は瞼を落とした。
「…何してるんですか」
「へ?朝日って何か有難くない?」
拝み出しそうになった綱吉に、骸が半分瞼を落とした。
「死のうとしてた人間が有難い、ですか。僕が止めなければ君はここにいなかったのに」
目を見開いた綱吉がすとんと視界から消えて、骸も目を見開いた。
無意識に視線を落とすと足元に綱吉が座り込んでいるから、骸がぎょっとしたのが分かった。
「何してるんですか…!?」
「や…その通りだと思ったら…こ、腰抜けちゃったみたい…」
消えそうな声に思うことは、髪の先が震えているのが見間違いではないということだった。
骸は瞼を半分まで落として溜息を落として、遠慮もなく綱吉に背を向けて歩き出す。
「おい…!腰抜けたって言ってるだろ…!止まらないともっと喚くぞ!六道骸に捨てられたって喚くからな…!」
「もう喚いてるじゃないですか!」
そうだねと些か気まずそうにえへへと笑う綱吉に、骸が諦めたような溜息を落とした。
そうして目の前に広がった背中に、綱吉は目を丸くした。
「ま、まさか…」
信じられないというような口振りの綱吉を振り返った骸は、不機嫌に眉根を寄せる。
「横抱きにされる方がお好みですか?」
骸にお姫様抱っこをされている自分が瞬時に浮かんで来て、綱吉はぶるぶると首を振った。そんなの罰ゲームだ。
嫌がると骸が喜びそうだと思った綱吉は、骸の気が変わらない内に背中に乗っかった。
朝日を受けて背中がとても温かい。
綱吉は何だか恥ずかしくなって口を窄め、恥ずかしがっているのがバレないように乱暴に首に腕を回す。
その勢いで骸がぐふ、となって睨まれたけど、顔を見られないように同じように後ろを向いて凌いだ。
二人で揃って後ろを向いているので、傍から見たらちょっとおかしい。後ろに何かあるみたいだ。