器×人間


時を遡ること数百年前、一人の陶芸家がいた。
彼の家は大層貧しく、大切な一人娘が病に侵されても医者を呼ぶことすら出来なかった。
生活のために何の変哲もない食器だけを作っていた彼は、死を待つだけの様な病床の娘をせめて喜ばせたいと試行錯誤を始めた。
元々手先が器用だったから、彼の指先から生まれる硝子細工は繊細で美しかった。
娘のためを思って創っているから尚更。小さな置物を創ると娘は目を輝かせてとても喜んだ。
だから彼はたくさんの作品を生み出した。硝子の小花の食器、猫が戯れるグラス、星屑を閉じ込めた様な小箱。どれも娘が喜ぶから作品はとうとう部屋を埋め尽くす。絵本の中の様な部屋に娘はまた喜ぶ。
たまたまそれを見た彼の雇い主が、作品を売って欲しいと言った。彼にも同じ年頃の娘がいたので、快く譲る。
雇い主の娘も大層喜んで、もっと譲って欲しいと言われた。彼には断る理由がないので、新しく創る。

やがて雇い主の知り合いもそれが欲しいと言い、さほど間を置かずに知り合いのその友人も欲しいと声を掛ける。


噂が噂を呼び町には彼の作品が溢れ、隣の街にまで広がり、高値で取引されるようになって上流階級の人間しか手に出来なくなり、ついには国王にまで献上された。


その頃彼は貧しかったのが嘘のように裕福な生活を送っていた。
娘にも医者をつける事が出来て、病は快復に向かう。彼はとても忙しくしていた。だから娘には自分の作品ではなくお金を出せば買える様なものばかりを贈った。

娘が少しも喜ばないのにも、笑顔が消えた事にも、彼は気付かないほど忙しかった。

快復に向かっていた筈の娘は突然容態を悪化させ、彼は娘の死に際に間に合わなかった。

娘が遺した言葉はただ一言「嘘吐きなお父さんは大嫌い」彼はそこで娘にお揃いのグラスを創る約束をしていたのを思い出した。

彼は自分を呪った。
巨万の富を得た替わりに大切なものを失ってしまっていた。

その後彼は人前に姿を現すことなく、創り上げる作品はそれまでの柔らかく優しい作品とはまるで違い、黒くゆがみ、歪なものになった。
そして献上するための作品には自分へ最大の憎しみを込め、創った。


黒よりも深い闇の藍色を持ち、美しくも禍々しいサファイアとルビーをあしらい、用途を得ないその器の名を「骸」と名付けた。


こんな不気味な作品を創った自分は世間に見捨てられ、王族にこんなものを献上した自分は打ち首になればいい。

けれど彼の思惑とは裏腹に、「骸」は多大なる賞賛を受けた。

皮肉なことに、歪んだ作品もすべて高値で取引されるようになる。彼は失意の底でひっそりと息を引き取った。


「骸」は彼の遺作として高い注目を浴びる。けれどやがてこの国にも革命が起き、王家は斃れ、世界は激動の時代を迎える。


「骸」は人の手から手へと渡り、そんな中、ひっそりと魂を宿す。


古来より物は魂を宿すと言われた通り、彼の呪いを媒体に人々の欲望を吸い込んだ「骸」は意思を持つようにまでなる。
一時は気まぐれに手にした人間を不幸のどん底に陥れたりもしたが、次第に飽きて何も思わなくなり、元より世界になんの未練もないから「骸」は眠りについた。


もう二度と目覚めることがないようにと。

けれど皮肉な運命は創り主に似てしまったのか、「骸」は大切に扱われ壊れることなくまた数百年の時を経た。


そして今、日本という島国にいる。「骸」はこの何の所縁もない国で目覚めた。

目覚めたのは自分の意志ではなかった。
優しく、揺り起こされたのだ。

その手が触れた瞬間に凍て付いていた魂が緩やかに溶け出すのを感じた。温かな体温がすべてを溶かしていくような錯覚に陥って、「骸」は目覚めた。


それは決して不快なものではなく、むしろ心地よかった。


目覚めた魂の先にいたのは、柔らかく光りを受けたような瞳と髪を持つ、柔らかな色彩の人だった。なるほど道理で温かい訳だと「骸」は理由も分からず納得した。


彼の名前は沢田綱吉。


大きな企業の社長らしい。目覚めてみれば時は大きく流れ、時代は変わり、「骸」が眠る前の世界にはなかった物ばかりが溢れていた。信じ難い事しかなかったが「骸」はもともととても聡い魂だったので、受け入れるのに時間は掛からなかった。

残念な事に「骸」の所有者は綱吉ではなかった。
所有者は綱吉の取引先の人間だった。会話を聞いているとどうやら仕事を受注しているのは所有者の方なので何故わざわざ綱吉が出向くのか分からないが、綱吉が来てくれなければ会えないので理由はどうでもよかった。

骸には実態がない。

空気に流れ出て溶けだす様な不確かなもので「形」はなかった。どこへでも流れ出て行けるのかと言えばそうでもない。「器」を中心に部屋の中を漂うのがせいぜいだった。だから綱吉の事を見ていられるのは僅かな時間だけだった。
いっそのこと、綱吉の物になってしまいたい。いつもいつも、そう思っている。

「骸」の所有者は大層色好みで辟易していたのだが、どうやら相手にするのは女性だけに留まらないようだ。綱吉のことを下世話に話しているのを聞いた時には殺意さえ芽生えた。けれど残念なことに長い眠りの中で「骸」の力は大分失われていた。綱吉を守れないことが歯痒くて仕方なかった。もしかしたら綱吉は自分の知らないところでも他の人間にそんな対象にされているかもしれない。そう思うと居ても立ってもいられなかった。出来るならずっと傍にいて守りたい。


想いは切なさまで孕み、日に日に大きく強くなっていった。


「骸」の想いも知らずに今日も綱吉がやって来た。
きっちりとスーツを着込んだ綱吉は勧められてソファに腰を下ろす。傍らに銀髪の側近が静かに立つ。
「骸」はこの側近のこともあまり好ましく思っていない。綱吉に馴れ馴れしいし、ずっと綱吉の傍にいるなんて業腹だ。

ぴしりと空気を強張らせると、側近が緩やかに睫毛を持ち上げ「骸」の意識の方を訝しげに見る。勘はいいようだ。けれどそんな事をしている場合ではない。綱吉がここにいる時間は短いのだ。

今日も変わらない温かな瞳に「骸」の魂は溶けだしていく。

もしもこの魂に手があるのだとしたら、綱吉に触れられるのに。
溶けだした意識で手の真似をしてそっと綱吉の肩に触れる。

もしもこの魂に唇があったなら、愛を囁いてキスが出来るのに。
人間の真似をしてそっと綱吉に頬を寄せると、綱吉がふと睫毛を持ち上げたので「骸」は少し驚いたけど、綱吉が自分を感じているのだと思うと得も言われない幸福な気持ちになった。


もしも声を授かったなら、一番最初に綱吉の名前を呼びたい。


「骸」の「器」にコーヒーが注がれて綱吉に差し出される。「骸」の所有者は骨董に疎い癖に高価な物を無駄に欲しがる性質があるようで、美術館に収められていてもおかしくない「骸」にコーヒーを注ぐ。
呆れ果てたが「骸」は元々「器」に執着がなかったので、綱吉に触れられるならそれでいいと思っている。

温かな綱吉の手が「器」に触れる。「器」を介して「骸」の魂に柔らかな熱が伝わり、触れる唇が至福の時になる。綱吉の吐息が心を震わせる。こんな気持ちになったのはそれこそ生まれて初めてだった。
こんなにも人間だったらよかったと思った事はない。想いは強いけど伝わらないから、綱吉の手は「器」を静かにテーブルに置いてしまう。寂しい気持ちで満たされる。

それなのに所有者が「ところで」と言うと綱吉は顔を上げる。悔しくて仕方がない。

「今度こそ食事をご一緒したいものですが、いいお返事は頂けますかね?」

テーブルの上に無防備に置かれていた綱吉の手に、汚らしい手が重なる。

「骸」は苛烈な殺意を覚えた。その瞬間「器」がガタリと倒れ中のコーヒーが飛び散った。

そこにいた誰もが目を見開き動きを止めた。コーヒーは向かい合う二人を分かつ様にゆったりと伸びて広がり、やがて床にぽたりぽたりと落ちた。

「失礼。手が当たってしまいました」

沈黙を破ったのは綱吉の静かな声だった。はっと我に返った側近が「大丈夫ですか」と膝を折ってハンカチを差し出した。その姿に「骸」はむっとする。ずるい。

「オレは大丈夫。それより」

綱吉が流した視線の先で所有者が顔色を悪くし「器」を見ていた。いわくでも思い出したのだろう。

「大丈夫ですか?」

綱吉が声を掛けると「大丈夫です。失礼しました。今片付けさせます」と言って秘書に指示をした。平静を装っているが目は不気味な物を見る目で「器」を見ている。この男の性格からして気に入らない物は捨てるか壊すかだから、「骸」は自分の運命を静かに悟った。


けれど不意に温かさが魂に触れ、はっと意識を綱吉に向けた。綱吉は穏やかに微笑み、「器」を手に取ってじっくりと眺めていた。


「本当に綺麗な器ですね」

綱吉の言葉に心が温かくなる。

「そう…ですかね」

曖昧に頷く男に綱吉はゆったりと口を開いた。

「キャッシュで5千万お支払いします。お譲り頂けませんか?」

男の目はゆるゆると見開かれていって、最後は口元までだらしなく開き切った。綱吉は静かに微笑み、けれどもはっきりと言い切った。

「この器には、それくらいの価値がある」

「骸」魂が喜びに震える。価格の問題ではない。綱吉にただ一言、価値があると言われたたったその一言だけが「骸」の心を震わせる。

男は茫然としたまま何度も大きく首を振った。

「いえいえいえいえいえ…!お金を頂く訳には」
「いえ、それではこちらが」
「お気に召したのならどうぞお持ち帰りください。包んで差し上げて」

綱吉が静かに瞬きをすると、男は「これからもどうぞ宜しくお願い致します」と頭を深く下げた。



「骸」に信じ難い幸福が舞い込んだ。



2010.05.31
続きますv