喧嘩をした。

理由はとても些細なことだった。

振り払った手がテーブルの上のグラスを弾いて、床に落ちて砕けた。
耳を裂くような音の中で、綱吉は目を見張ってから酷く悲しそうな顔をした。

骸は自分でした事なのに見ていられなくなって、何も言わずに寝室へと入った。

割れたグラスを片付ける音が酷く寂しげで、骸は居た堪れなくなってベットに潜り込んだ。

浅過ぎる眠りを漂いながら、まだ薄暗い中で綱吉が玄関を出て行く音を聞いた。

散歩にでも行ったのだろう。
喧嘩をした日はよく、朝焼けを見に行ったから。

けれど、骸は起き上がらなかった。

やがて朝日が昇って、空が青に変わる頃になっても綱吉は戻って来なかった。

嫌な予感がした。

寝室を飛び出してすぐ、テーブルの上の手紙に気付いた。

嫌な予感は当たるもので。


急いで開いた手紙にはたった一言、『捜さないで』


間違いなく綱吉の字だった。

考えるまでもなく綱吉のクローゼットを開けた。

骸は愕然とする。

何もない。

今日は深い眠りには入っていない。

荷物を詰める音はしなかった。
それなら綱吉は、いつからかもう荷物を纏めていた事になる。

骸は無意識に口元を手で覆った。


気付かなかった、何も。


昨日の夜の喧嘩が原因ではない。最後の、きっかけだったのだ。

骸はコートを羽織ると何も持たずに階段を駆け降りてから、また部屋に戻った。
リビングに飾ってあった二人で映っている写真をポケットに入れて、部屋を出た。

宛てなど何もない、けれどこの小さなアパートメントの前の細い石畳の道に車が入れば音が響く。
音は一切しなかった。だから、列車でどこかに行ったのだろう。

骸は朝日が霧を照らす道を走った。

この時間ならまだ乗客は少ないはずだ。
駅員が綱吉がどこまで切符を買ったか覚えているかもしれない。

閑散とした駅に走り込んで、古びた窓口に駆け寄る。
初老の駅員が少し驚いたようにしてから、ゆったりと笑った。

「おはよう、骸くん。」

「あ、の・・・綱吉が、来ませんでしたか?」

「綱吉くん?ああ、来たよ。大きな荷物を持ってたね。旅行かい?」

言って手ぶらの骸を見て少し首を傾げた。
骸が言葉に詰まると、駅員はまたゆったりと笑った。

「はぐれてしまったんだね。」

長い睫毛を揺らした骸の目の前に、一枚の切符が差し出されて骸は目を見張った。

「隣街まで切符を買って行ったよ。今なら途中で降りたとしても、駅員が覚えているかもしれない。」

ありがとう、と短く言ってホームに止まっている列車に乗り込んだ。
深い赤のベルベットの座席に座る人はほとんどいなくて、静かな車内をただ朝日が照らしている。

ゆっくりと走り出した列車に、窓の外の景色が流れていく。

駅に着くたびに降りて、駅員に尋ねた。
曖昧なところもあったけれど、どうやら綱吉は途中で降りずに目的地まで行ったようだ。

隣街の駅に降りると、懐かしく海の香りと潮騒の音がした。

近くにいた駅員が、顔を上げて笑った。

「骸くんじゃないか!今日は懐かしい顔が揃ったね。」

「綱吉が、ここに来ましたか・・・?」

「うん。始発の列車に乗ってね。」

「どこに行くか言ってましたか?あの、はぐれて、しまって・・・」

「そうだったんだ。朝食を食べに行くとは言ってたけど、どこに行くかまでは聞いてないな。」

「そう、ですか・・・ありがとう。」

改札を抜けると駆け出した。
海沿いの白い道を走る。

心当たりならある。
綱吉が以前、働いていた店。

そこで、綱吉と出会った。
もう、十年も前の話しだけれど。

波の音の中で、白い階段を駆け上る。

昔のままの扉を開けると、がらんがらんと小さな鐘の音がして
眩しい日差しにぐらりと眩暈がした。

「いらっしゃい。あれ?骸くん?」

骸は額の汗をそっと拭ってから、小さく息を整えた。

「あの席、まだあるんだよ。骸くんがよく座ってたテラスの席。」

口を開く前に指し示されたのは、海がよく見えるテラス席。
自然に目を向けると、あの時と同じように花が飾ってあった。
でもそれだけで、店の中に綱吉の姿はなかった。

「綱吉が、来ませんでしたか?」

「綱吉くんも来てるんだ。」

懐かしいなぁと口元を綻ばせた店長に、骸は睫毛を揺らした。
ここへは来ていないようだ。

「何か食べて行く?」

「ありがとう。でも急いでるので。」

コートを翻した骸に、柔らかな声が掛かった。

「ああ、待って。はい。」

渡されたのは、綺麗なオレンジ色の紙に包まれたお菓子だった。

「今日はハロウィンだからさ。子供が来たら、渡してあげるんだよ。」

ありがとう、と言って骸は店を出た。


消息が途絶えてしまった。

もう、追い付けないのだろうか。

なぜあの時、起き出して綱吉を追わなかったのか。

綱吉が自分の横にいるのを当たり前のように思ってしまっていた。

以前二人で住んでいたアパートメントの横を通ると、そこはもう次の住人がいて賑やかな声が聞こえてきた。


たまたま仕事で立ち寄ったこの街で、綱吉と出会った。


海が広がるこの街で、綱吉はレストランで働いていた。

華奢な体に白いシャツを着て、大きな黒いエプロンをつけて。

初めて出会った時綱吉は白いクロスが掛かるテーブルに花を飾っていて、開店時間にはまだ早かったのに、骸が店に入るととても柔らかな笑みで出迎えてくれた。


仕事でこの街に滞在している間中、ずっとレストランに通った。
気付くと、足が向いていたのだ。


骸は自分を含めて人間が大嫌いだった。

けれど、綱吉を通して見た世界は、とても優しかった。

綱吉も身寄りがないと言っていて、一緒に暮らすようになるまでそう時間は掛からなかった。

綱吉は骸のために住み慣れた街も離れてついて来てくれた。

いつも笑って傍にいてくれた。


甘えていた。完全に。


思い返せば一度でも、ちゃんと口に出して好きと告げた事があっただろうか。

失う事なんて、考えた事もなかった。

自分が綱吉を必要としているように、綱吉も自分を必要としてくれているのだと思い込んでいた。


何て、愚かなのだろう。


地面を踏んでいる感覚すら失われそうに、緩やかに上げた視線の先にカフェを見付けた。

パステルピンクの淡い色のカフェは、ここに住んでいる頃綱吉とよく行っていた。

骸は微かな望みを持って、そっと店の扉を開けた。

「骸くん!骸くんも来てたのね!」

変わらない女店主は、骸を見ると目をまんまるくした。
骸は目を見開いて、思わず身を乗り出す。

「綱吉が来ましたか・・・!?」

「ええ。随分早い時間に、朝食を食べに来たよ。」

「どこに行くか言ってませんでしたか?」

女店主は記憶を辿るように天井を見上げてから、口を開いた。

「しきりに列車の時間を気にしてたね。パレードを見たいって言ってたから、先の街に行ったのかもしれない。」

「パレード、」

「そう、あそこのハロウィンのパレードは有名だからね。一度も行った事なかったんだっけ?」

「・・・はい。」

綱吉は毎年パレードを見たいと言っていた。

骸は仕事が忙しいから、友達と行って来たらいいと言っていたけど、綱吉は骸と見たいからと言って、行かなかった。

待ってて、くれたのに。

骸は礼を言うと、また駅に向かった。


列車が進むにつれて、人の波が多くなる。

海の街は途切れ、やがて車窓にはコスモス畑が現れる。

待ちわびるようにして到着した駅はきらきらとした人々の笑顔で彩られ、改札を出ればそこはハロウィン一色だった。

華やかに飾られた街は、パレードを待っている。

この街に来るのは初めてだった。
右も左も分からない。

駅を出てすぐに、仮装をした子供たちが駆け寄ってきた。

「トリックオアトリート!」

骸はポケットに入れたお菓子を、子供の小さな掌に差し出した。
後ろからすぐに母親らしき女性が寄って来て、小さく会釈をする。

骸はその女性に綱吉の写真を見せた。

「この子を、見ませんでしたか?」

女性はしばらく写真を眺めてから、申し訳なさそうに首を振った。

「ごめんなさい、私たちも他の街から来ているの。」

骸はそうですか、と静かに応えた。


年に一度のパレードを見るために、この街には人が溢れている。
それに人々は仮装をしていて、この中から綱吉を見つけ出すのは不可能な気さえした。


街に響く陽気な音楽が、煩わしい。


骸は一人、苛立ちさえ感じて街の中を歩いた。

煩わしい、何もかも。

ふと視線を上げるとバス停のすぐ横に、花を売る少女がいた。

街の煌びやかさとはほんの少しそぐわない身なりの子供だった。
孤児なのかもしれない。

けれど道端に広げた花はどれも綺麗で、骸は思わず足を止めた。

綱吉は、花がとても好きだった。
一緒に暮らしている部屋にもいつも、花を買って来たり、摘んで来たりしていた。

ほんの僅かな期待を込めて、骸は体を屈めると少女の前に写真を差し出した。

少女は骸が何も言わないうちに、ぱあと顔を綻ばせた。

「お花のお兄さんだ!」

無邪気な声に骸は目を見張って、思わず少し体を乗り出した。

「この子を、知ってますか・・・!?」

「うん!お花をたくさん買って行ってくれたの。それで、花言葉も教えてくれたのよ。」

「どこに、行くか言ってましたか・・・?」

「すぐに借りられるアパートを捜してるって言ってたから、おばあちゃんを教えてあげたの。」

「アパート、ですか」

「うん。おばあちゃんはお部屋をたくさん貸してるの。この先の、赤いお家よ。」

幼い指が道の先を指す。

「・・・ありがとう、」

ポケットを探るが、あげられるようなものは何もない。

「・・・この子は、どの花の話しをしてましたか?」

「この赤いお花よ。花言葉は変わらない愛って言うんだって!素敵よね。」

おませな笑顔を浮かべる少女に、骸は思わず微笑んだ。

「それならこの花をあるだけください。」

「ありがとう、お兄ちゃん!」

赤い花の大きな花束を手に持って、
人混みを擦り抜けて、赤い家に足を向ける。


綱吉は、この街で暮らすつもりなのだろうか。

この街に知り合いはいないはずだ。

何もかも捨てて、何もかも忘れて一人、新しい生活を送るのだろうか。


骸はそっと眉根を寄せた。

迷惑、だろう、きっと。
勝手に、こんなところまで追って来て。

会うのが怖い。
もう骸の知らない綱吉になっているかもしれない。


けれど、会えないのはもっと、怖かった。


赤い扉を押し開けると、部屋の中には老女がひとりチェアに腰を掛けて編み物をしていた。

「いらっしゃい。あんたも部屋を探しているのかい?」

骸はしまう事すら忘れて手に持っていた写真を差し出した。

「この子が、ここに来たと思うのですが。」

老女は眼鏡を上げて写真を覗き込むと、ああ、と声を上げた。

「来たよ。一週間だけ借りられるアパートはないかってね。」

「一週間?」

「そう、一週間。店の前の道を2ブロック行ったところのアパートだよ。表札を出しておくように言ったから、すぐ分かると思うよ。大通りに面しているんだ。パレードがよく見える。あんたも邪魔しないように一緒に見させて貰ったらどうだい?友達なんだろ?」

「え?」


「ここには一人で来たけど、恋人と旅行なんだってね。」


ぐらりと地面が揺れた。

冷たいものが、体の奥にひんやりと落ちてきて息を詰めた。


「どうしたんだい?」

ふと我に返って、骸は緩く首を振った。

「いえ・・・ありがとう、」

何とか店の外へ出ても、地面は揺れたまま、息が上手く吸えない。
人混みを、上手く、擦り抜けられない。


恋人。
恋人と旅行。


いつの間にか、綱吉にはもう、他に想いを通わせるような人間がいたのか。


気付かなかった、何もかも。


青く高い空が白々しく冷たく見えて、僅かに傾き始めた日の光に焦燥感が滲み出た。

もう迷惑でしかないだろう。
けれど、このまま身を引く事なんて出来ない。


勝手だと分かってる。けれど、このままただ綱吉の幸せを願うなんて、出来ない。


2ブロック先にオレンジ色のアパートメントを見付け、骸は無意識に息を落とした。
あちらこちらの窓から下がる華やかな飾り付けも今は、骸の目には映らない。

階段を上って、表札の出ている扉の前に佇む。


もしかしたら今、恋人といるのかもしれない。


ノックしようとした手を下げて、けれどまた持ち上げた。

叩こうとした手を止めた時、不意に扉が開かれて、骸は目を見張った。

中から出て来たのは、黒猫のお面を被っている、間違いなく、綱吉だ。

「トリックオアトリート!」


綱吉の、声。


言葉を見付けられずにいる骸に、焦れる事なく綱吉は面をずらして頭に乗せた。

「あれ、お菓子持ってないの?ハロウィンなのに!」

綱吉は大きな目をぱちぱちと瞬かせてから少し笑った。

いつもの綱吉で、当り前の光景で、骸は戸惑った。

誰かと間違えているのだろうか。
そのふたつの瞳は間違いなく骸を映しているのに、何もなかったように笑う。

まるで自分を映していないように思えて、言葉を失くす。

「あ、もしかしてその花がお菓子の変わり?貰っていいの?」

「え、あ」

骸の手から花束を取ると、綱吉は部屋の中に入って行った。

「あ、でも普通は逆だよね。外から来た人がお菓子貰うよね。」

ゆったりと閉じていく扉に、綱吉は少し振り返った。

「入らないの?」

促されて、骸は躊躇いがちに中に入った。

「この部屋にも子供たちが来るって言うから、バスケットにお菓子をたくさん入れておいたんだ。
だけどさ、ほら、少し寂しくない?だからちょうどこんな花が欲しかったんだよ。」

綱吉は嬉しそうに赤い花をバスケットに飾る。

「白いお皿も寂しいからね、この花を飾ればご飯も美味しそうに見えると思うんだ。」

二人分の食器に、骸は目を奪われる。
綱吉が食器を大切そうに扱う。

誰の、ために?

「・・・誰ですか?」

ようやく絞り出した声に、綱吉はきょとんと首を傾げた。

「ん?」

「君は、この部屋で誰を待っているんですか・・・?僕の知っている人間ですか?」

綱吉がとても柔らかく、どこか諦めたように笑うから、骸の心はじくじくと痛んだ。

綱吉が誰の名を呼ぶのか知りたい。けれど、知りたくない。

息を詰めた骸に、綱吉ははっきりとした言葉を紡いだ。

「骸。」

「え?」

「骸を待ってたんだ。」

目を見開いて言葉を失くした骸の前まで、綱吉はゆっくりと歩いて行った。

ずっと見詰めてきたふたつの瞳が、今また骸を映す。

「俺たちさ、恋人って呼べるようになってから随分時間が経ってるだろ?
何となく一緒にいるのは嫌なんだ。だから、はっきりさせようと思って。」

骸は続く言葉を思い、悲しそうに眉根を寄せた。

「俺、骸が好き。この先もずっと一緒にいたい。」

目を見張った骸を見上げる瞳が大きく瞬きをすると、涙の膜が光りを乗せた。

泣き出しそうに、綱吉は言う。

「骸は、俺の事好き・・・?」

骸は迷わず綱吉を抱き締めた。

「好きじゃなければ、こんなところまで来ない・・・!」


吐き出すように言って更に腕に力を込めると、綱吉は骸の腕の中で涙を落として、抱き締め返した。

「試すような真似してごめん・・・。」

「・・・僕も、今までずっとごめんなさい。
僕は、綱吉が、好きです・・・大好きです・・・」


パレードが来る。

煩わしかった音楽は、今は祝福の音にさえ聞こえて。


2010.11.3
ハッピーハロウィン!過ぎてるけども!!!!!!!
倦怠期を乗り越えてまた新婚ムクツナに生まれ変わりv
と言うか、骸も綱吉も心の中では新婚気分だったけど、ちょっと擦れ違っていたという感じですねv