夜に舞う桜の花びらが、だらりと伸びた幼い掌に乗った。
千種はそれを何となく見てから、後部座席に乗り込んだ。

「出して。」

短く言えばささやかな振動とともに車が滑り出す。


革のシートの上に華奢な体を置かれて眠る少年は、
昼間に見掛けた時とは違った意味で随分幼く見えた。

銀色の髪に道路脇のオレンジの外灯が流れていく。


監視するとはこういうことだったのか、と千種は他人事のように思う。
どうやら戸籍上でこの子供の父親になっているようだ。


骸は千種への切り札に、この子供、隼人を選んだようだ。


骸は誰のことも信用していない。

それは千種も重々承知していて、だからと言って信じて欲しいと思う訳でもなく
千種からすれば骸の手足になれればいいだけの話しなのだが、
骸からしたらそうはいかない。

もしも万が一、千種が裏切るようなことがあれば切り札に隼人を使えるようにするのと、
後は何より、沢田綱吉から隼人を遠ざける目的でもって千種の監視下に入れたのだろう。

(けれど、)


隼人が自分への切り札になるとは到底思えない。


それとも本当にただ純粋に「沢田綱吉」に隼人を近付かせないための処置なのか。

骸が綱吉を見付けてからというもの、骸が綱吉に何を求めているのかも、
その綱吉に関わるものに対しての骸の行動がまるで読めない。


骸は、綱吉に何を求めているのだろうか。


ごつ、と鈍い音がして隣を見遣れば、
隼人がシートから落ちて床に転がっていた。

うーんと呻く隼人に一瞥をくれただけで、千種はまた前を向いた。

けれどこれはきっと考えても分からないことだし、
骸に与えられたのなら全うするだけだ。


隼人を綱吉と二度と会わせない。

それだけだ。


車が止まり後部座席のドアを開けた部下が、床に転がっている隼人を見て
些かぎょっとしたようだったが、「お連れします。」と言って隼人を抱き上げた。

「その辺に置いといて・・・」

まるで物を置くような口振りで指示をして、千種は先に部屋に上がった。

「スーツはこちらに置いておきます。失礼します。」

言って出て行った部下にちらと視線だけを投げて、千種は床に転がっている隼人を見下ろした。

うーん、と小さく呻く。
そろそろ睡眠薬が切れてきたようだ。

綱吉と会わせないようにするのは簡単だ。
単にこの家から出さなければいい。
部屋なら余っている。

「・・・。」

けれどどの部屋にも鍵がない。
内側から掛ける鍵しかないのが普通だ。

骸には隼人を手懐けるまで自宅で仕事を片付けるように言われている。

けれどもこうした場合は骸が潰したい人間がいることが多い。

潰したい人間を千種の代わりに傍に置いて、潰す。

骸の場合は暴力で潰すのではなく、
二度と立ち直れなくなるくらいに精神を潰して社会から排除する。

「・・・。」

骸の動向は、骸が特に隠し立てしない限りはそれとなく読めるのに
どういう訳か綱吉に対しての骸の動向だけは分からない。

隠している、ようでもない。


それなら、一体。


視線を感じてふと目を下ろすと、床の上に体を起こした隼人がその深い緑の瞳で千種を見上げていた。

目が会うと途端に、幼い瞳に似つかわしくない鈍い眼光が走る。

「てめぇ・・・誰だ?」

けれど子供に変わりはなく、千種が怯えるはずもない。

元々何かを答える気もなかったので、千種はジャケットを脱ぎ捨てた。

こういう状況に慣れているのか、隼人は何も言わない千種に舌打ちをすると横を擦り抜けようとした。

「!」

腕を掴み上げられた隼人は弾かれたように千種を睨み付け、
腕を外そうと大きく振り切ろうとするが、掴まれた腕は解放されなかった。

「離せよ・・」

呻くような低い声は、動物の威嚇のようだった。

けれど千種の瞳に感情が揺れることもなく、手は腕を離れない。

「あんたはここから出さない。」

「ざけんな!」

ぎり、と睨み上げてくる瞳はまるで世界のすべてが敵だと言っているようで、千種は僅かに目を細めた。

無理矢理伸ばした隼人の手は扉に届く前に遮られ、隼人はそのまま床に吹っ飛んだ。

それほど力を入れたつもりはなかったのに、
千種は子供の力の弱さを初めて知った。

「どういうつもりだ・・・」

体を起こした隼人は一度舌打ちをしてから、千種を睨み上げた。

千種は隼人には何も話す気はなかったし、話す必要もないと思っていたが
このまま同じことを繰り返し問われるのも面倒だと思い、小さく溜息を落とした。

「沢田綱吉とは二度と会わせない。」

綱吉の名が出た途端にざわりと揺れた瞳は初めて怒気を孕んだ。
向って来た隼人に千種は溜息を落とす。

(面倒だ)

細い項を掴んでいなすように体を押し遣れば、
隼人は前のめりに壁に突っ込んで大きな音を立てて床に体を落とした。

それでも起き上がり、その瞳の鈍い眼光は褪せない。


思っていたのと違う、大分面倒だ。

縛って置いておこうと思ったが、生憎この部屋にはなにもない。


「何でてめぇにそんなこと言われなきゃなんねぇんだよ!」

千種は緩やかに目を細めた。

そんなの決まっている。


「骸さまの命令だからだ。」


深い緑の瞳が揺れた。


分かりやす過ぎるその感情は戸惑いを乗せながら、まるで炎が消えていくように緩やかに静まって、
やがてふいと視線が逸らされた。


「?」

あまりの変わりように千種は思わずきょとと瞬きをするが、
隼人は構わずにぺたぺたと部屋の中を歩き始めた。

眉根を寄せながら憮然とリビングを歩き、緩やかに首を傾けると足早にキッチンへ入って行った。

出て来た隼人はほとんど小走りで洗面所へ行き、出て来たと思ったら今度は走るようにして部屋を見て回っている。

「・・・。」


何をしているのかさっぱり分からない。


目の前を横切って部屋に飛び込んでは出て来る。
千種は小回りの利く隼人を目で追うしか出来ない。

そもそもさっきの説明で納得したのかと、千種らしからぬことも思った。

大きく眉根を寄せた隼人は、怒ったような動作で千種の元まで歩いて来ると、千種をきっと見上げた。

「何だよこの部屋!!」

「え?」

「え?じゃねぇよ!!」

回し蹴ろうとした隼人の足を緩やかに避けると、隼人は勢い余って体を回転させてぺちゃっと床に座り込んだ。

が、すぐに起き上がる。

「避けんじゃねぇよ!」

「え?」

「何だてめぇそれしか言えねぇのかよ!」

回し蹴りを避けると、隼人はまた勢い余って体を回転させぺちゃっと床に座り込んだ。
が、すぐに立つ。


千種は困惑した。


何だろう、この生き物。
何を言っているのかまるで分からない。
何をしているのかまるで分からない。

「何でこの部屋何にもねぇんだよ!」

何でと言われてもそれはただ単に、

「・・・必要ないから。」

隼人は眉根を寄せたまま顔を思い切り歪めて呆然と千種を見上げてくる。

必要ないからいらない、それがそんなにおかしいことだろうか?

「だからって、冷蔵庫も洗濯機もテレビも何もねぇじゃねぇか!」

「だから、必要ない。」

千種の家は何もない。ソファもテーブルも、本当に何もない。
でもそれを不便と思ったことも一度もない。

「食事は外だし食べないこともある。洗濯は全部クリーニング。」

「不経済!」

「え?」

「え?じゃねぇよ!」

「・・・言っている意味が分からない。」

「おめぇが分かんねぇよ!」

殴ろうとしてきたのでいなすようにかわせば、隼人はまた壁に突っ込んでいく。

けれど隼人は少しもめげずに立ち上がって振り返った。


噛み合っている気がしないのは、自分のせいなのだろうか、隼人のせいなのだろうか。


(・・・どちらでもあるな、)


性格がまるで違う。


けれどここまで他人に違和感を覚えたことは記憶する限り一度もない。


「テレビがねぇならニュースも見れねぇじゃねぇか。」

「・・・ニュースなんか見るの?」

凄い違和感だ。

「煩え。」

「ニュースなら新聞で済む。布団にもなるし。」

「はぁ!?ホームレスかよ!」

床に散らばっている日本語や英文の新聞に目を剥いた隼人に、千種はますます困惑する。

ホームレスは路上で生活する人間のことを指すのではないのか。

「家、あるし・・・」

「そういう意味じゃねぇよ!マジ意味分かんねぇ。」


何だかムッときた。

意味が分からないのは隼人の方だ。


「うぉ!」

隼人の首根っこを掴んで床に倒すと、まだ頼りない背中に思い切り片足を乗せて踏んだ。

「てめぇ!このやろう!!」


じたばたとするが抜け出せない隼人の姿に少しすっとした気分になる。


(それにしても、)


子供は思った以上に、予想を遥かに越えて面倒なものだと分かった。


でもムッとしたのなんて、いつぶりくらいだろう。



2010.01.29