「千種。」

名前を呼ばれて千種はつと顔を上げてソファに座る骸に歩み寄った。
言葉を聞き逃さないために少し腰を折って耳を寄せる。

「あの子供はどうしたのですか?」

ふと上がった骸の口角は、いつもと同じで取り立てて何の感情も乗せていない。
質問の明確な意図を汲めないまま、千種は呟くように答えた。

「・・・家です。縛って置いて来ました。」

おやおや、と骸は些か愉しそうに目を細めた。

「壊してしまっては意味がないのですよ。分かりますね?」

「はい。」

千種は少し考え込むように眼鏡の奥で睫毛を揺らしてからふと口を開いた。

「・・・勝手に壊れても、ですか?」

「物騒ですねぇ。」

少しもそんなことを思っていない口調で言って、骸は足を組み直した。

「あの子供を保護する責任が出来た以上、「勝手に」と思っていてもすべてがお前の責任になるのですよ。
僕の言っている意味が分かりますね、千種。」

「はい。」

「それなら家に戻りなさい。
あの子には絶対に近付けないように。」

千種ははい、と言って一度お辞儀をして執務室を出て行った。


骸の言う「あの子」は隼人と共にいた「沢田綱吉」。


あの小さな子供に一体何があるのか、未だに分からないでいる。

車の後部座席から見た桜並木は花びらを強く舞わせていた。



部屋に帰れば中はしんと静まり返っている。

壁一面の窓から入ってくるまだ柔らかな日差しで、
隼人は床に丸まるようにしていた。

後ろ手に縛って繋いでいるだけだから大丈夫かと思ったが、
精神的に追い詰められ過ぎると、そのまま呼吸が止まってしまうこともあることを何となく思い出した。

近付くと光を弾くような銀色の髪の隙間から少し顔が見える。

(寝てる、)

飽くまで穏やかな呼吸を繰り返す体は死とは程遠い。

この状況下で眠れるのは、こうした状況に慣れているか、よほどの馬鹿か
或いは冷静な状況分析が出来るかだ。

隼人の言動を見る限り、ただの馬鹿に思えるのだが。

「・・・。」

白い頬の上で睫毛がぴくと動いた。

人の気配を感じてゆったりと瞬きをしながら瞼を持ち上げた隼人は、
見下ろす千種と目が合うと、眼光を鋭くさせた。

ぎらぎらと光るような深い緑の瞳はただ千種を睨み上げ、まるで獣みたいだと思う。

何も言わずにしゃがんで隼人に噛ませていた布を解く。

小さな口は大人しく開かれ、赤く鬱血したような小さな唇から布が離れた途端、
隼人は弾かれたように千種へと向かった。

けれど千種は動かない。

隼人を繋いでいるロープはぴんと張り詰め、
隼人は千種に体が届く前に引っ張られるように後ろへ吹っ飛び
そのまま勢いよく床に体を突っ伏した。


やはり馬鹿なだけだろうか。

けれども瞳の色は屈さない。


歩み寄って行く千種を床に体を落としたまま睨むように目で追って、
今にも噛み付いて来そうだ。

千種は擦れて淡い赤に染まった隼人の手首に目を落とす。
骸が壊すなと言うなら従うだけ。

手首のロープを解くと、思った通り向かって来たから押さえるのは簡単だった。

首を掴みうつ伏せに倒すと、隼人の上に座り一息吐くと鞄を引き寄せた。

「て、め・・・!何人の上で、くつろいでんだよ・・・!」

千種は鞄の中からパソコンを出すと電源を入れた。
任されている仕事はしなければならない。
隼人がばたばたと暴れるから、画面が見辛くて仕方ない。

暴れ過ぎた隼人はぐへっと潰れるような息を吐いた。

「・・・。」

本当に潰れそうだから隼人から降りると、思った通り向かって来たので
今度は仰向けにすっ転ばせて腹の上に体を乗せるようにして動きを止めさせた。

クッション代わりにいいかもしれない。

隼人がもがくように上げた膝が背中にぶつかって眼鏡がずれた。

クッションにしては動き過ぎる。

千種は眼鏡を押し上げて隼人を見下ろすと、今まさに腕に噛み付こうとしているところだった。

獣と言うよりこれは、「・・・・猫みたいだよね。」

力があれば獣にも見えるのかもしれないが、じゃれついているように見える。

「ああ!?」

心外だと言わんばかりに剥かれた目も猫みたいだ。

「テレビ買うから。」

「は!?」

「見るんでしょ、ニュース。」

テレビを与えたら少しは大人しくなるかもしれない。

探るような戸惑いを乗せた瞳を揺らして千種を見上げた隼人はゆるゆると力を抜いていった。

「・・・いつまでここにいりゃいいんだよ。俺は施設に帰りてぇ。」

「施設に用はない。」

「ざけんな!てめぇがなくても俺があんだよ!」

腕をずらして暴れる隼人の喉元に腕を押し付けるとおえっと潰れるような声を出した。
そして千種はふとそう言えば、と思い至った。

「俺の名前は柿本千種。」

「・・・あ?」

「あんたの名前は柿本隼人。」

「はあ!?俺は獄、」

答えに辿り着いたかのようにぴたりと動きを動きを止めた隼人は、ゆるゆると目と口を開いていった。

そうだ。まだ言ってなかったのだ。


「俺はあんたの父親。・・・・多分。」


何だってと鼓膜を破りそうな声が部屋に響いて、千種は心の中で耳を塞いだ。



子供は煩くて敵わない。


2010.05.13