驚くほど静かになったアジトの中にただいまれふーと犬の声が響いた。

「・・・ちゃんと戻りましたか?」

「はいー!ちゃんと屋敷の中までぶっこんでおきましたー!」

骸はそうですか、と安心しつつも。

「・・・随分とあっさり帰りましたね。」

帰りなさい、と言う骸に綱吉は帰りたくないと泣き喚いてのこのこアジトまで着いて来て、
そしてまた泣き喚いて帰りたくないと言って泣き散らかすものだから、手を焼いた。

あれで10歳?11歳?

間違いなく骸はその年にはあんなじゃなかった。

それならと試しに言った言葉は、やはり綱吉には効果覿面だった。


帰らなければ嫌いになる。


嫌い、という言葉は今でも綱吉に言うことを聞かせるのには有効だったようだ。

言えば綱吉は大人しくなって、あっさり帰って行った。

頭のどこかでごねられるのではと思っていただけに、拍子抜けした気分にもなった。

「本当れふよね〜鼻水垂らして泣いてたくせに、また明日!って言いながらあっさり帰っていったれふよ〜」

「え?」

「ん?」



ん?



「骸、こっちこっち!」

港の公園に足を踏み入れれば、いち早く気付いた綱吉が大きく手を振った。

綱吉の足元には子犬が転がるように纏わり付いる。

綱吉が公園をうろついていたと聞いたので来てみれば、
どういう訳か千種も犬も来ていて、一緒になってバスケットの中身を広げていた。


ピクニック気分か。


この辺りは治安が悪くて泣く子も黙る六道一家の本拠地だ。

どんなに馬鹿でもそうそう近付かない。


「あ!こら、ナッツ!骸は食べ物じゃないってば!」


そんな柄の悪い連中の頂点に君臨する骸のブーツは子犬にかじかじと齧られていた。

甘噛みだし別にぜんぜん痛くないけど、痛くは、ないんだけどなぁと
骸は遠い目をする。

まだ骸をかじかじしている子犬を、綱吉は抱き上げた。

「骸しゃん噛ませんなよ!ちゃんと躾とけよな〜!」

「ご、ごめん!」

「犬、本当は触りたいんでしょ。」

そういえばさっきから犬は落ち着かない様子でナッツを見ているが、
ナッツはといえば人見知りをして怯えているから、
犬が手を出しても千種が手を出しても、おどおどと綱吉の後ろに隠れてしまう。

「大丈夫・・・!ナッツは臆病で人見知りだけど、あと二、三回会えば慣れると思う。」

「本当らな?」

「うん!あ、もう、骸は食べ物じゃないってば!」

いつの間にかするりと綱吉の腕を抜けた子犬は、千切れんばかりに小さな尻尾を振りながら
腰を掛けて地面に手を落としていた骸の指をぺろぺろかじかじしている。

綱吉は子犬を抱き上げた。

「ごめんな、骸・・・」

「・・・いえ、」

それしか言う気力がない。

けれど綱吉は頬を染めて、抱き上げた子犬にそっと鼻先を擦り合わせて微笑んだ。

「骸が優しくてよかったな、ナッツ。ナッツも骸が大好きなんだね。」

自分の言った言葉に気付いて、綱吉は微笑んで固まったままかあ、と頬を赤く染め上げた。

千種と犬が口元を手で覆う。

ぼお、と港で船の汽笛が低く鳴り響いた。



何だかなぁ・・・



綱吉はそれから毎日来た。


雨の日は子犬とお揃いのレインコートを来て、雨なんて気にもしないような笑顔でやって来た。

子犬がまた馬鹿っぽくて、でも綱吉の言う通り三回会ったら犬や千種にも懐いた。
甘噛みするのは骸だけにだが。

綱吉はと言えば歩けばふよ、ふよ、と音がしそうだし、笑えばお花が周りを漂う雰囲気だ。

凍えるような冷たい季節が行き過ぎて、風に混ざり始めた春の匂いのように、と言えば聞こえはいいが
とにかく馬鹿っぽい。


運河の堤防の下、地べたに座り込んでキラキラと光る水面に石を投げた。


平らな石は円形の波を作りながら水面を二回、三回と低く跳ねていった。

隣にいた綱吉はわあ、凄い!と声を上げた。

綱吉は近くにあった石を手に取って真似をするように投げるが一度も跳ねずにぽちゃんと落ちた。

横から骸が投げればまた水面を三回跳ねてからぽちゃんと落ちる。

凄い!と目を輝かせて体を乗り出すものだから、お約束で運河に落ちるんじゃないかと懸念した骸は
綱吉のジャケットを掴んで引っ張った。

綱吉はふわふわと笑って骸の横に納まった。
横で子犬が跳ねるように遊んでいる。


ああ、気が抜ける。


「・・・それにしてもよく毎日毎日抜けて来れますよね。」

「ん?」

「君くらいの家なら、子供でも屋敷を出るときは誰かしら付くものでしょう。」

本当に一瞬だけ、伏せた目を揺らした綱吉に首を傾げそうになったが、地面に付いた右手をかじかじされている。

「あ、ナッツ!だめ!」

綱吉が手繰り寄せるように抱き上げてぷくっと頬を膨らませると、子犬は耳を下げてきゅんと鳴いた。

「うん、ナッツはいい子だな。怒ってごめんね。」

言うとナッツは嬉しそうに尻尾を振って綱吉をかじかじし始めた。

きっとこの子犬なりの愛情表現とは思うが、馬鹿っぽいなぁと心底思う。

綱吉は自分がされるのは気にしないようで、子犬に手をじゃれつかせていた。

綱吉の横顔が静かに微笑んだ。

「屋敷の離れに俺の部屋があるんだけど、その裏の塀に小さな穴が開いてるんだ。
普段はレンガで隠してるけど、気付かれてないからそこから出入り出来るんだよ。」

綱吉はへらっと笑った。

白い頬に水の光が反射して揺れる。

そびえる塀の監視カメラにも気付かれてないのか、と思うが
監視カメラに死角でもあるのだろうか。

「そんなことを僕に言ってもいいのですか?」

「ん?」

「・・・君は、僕が何をしてるか知ってますか?」

ぽしゃんと目の前で魚が跳ねて水を散らす。

「泥棒さん?」

「・・・とは少し違いますが、噛み砕いて平たくすればそうかもしれません。」

そっかあと間延びした声が
頬笑みに乗って、それから綱吉は骸の瞳を覗き込んで笑った。

「でも、骸は骸だろ?」

子犬が綱吉にじゃれついて、抱き上げてとせがんでいる。

綱吉はくす、と笑って毛並みを撫で付けると、子犬を抱き上げて頬擦りをした。

子供染みているのか、達観しているのか分からない。

言葉を探す内によく分からなくなって、骸は口を引き結んだ。


ゆらゆらと髪が風に揺れて、骸は隣に視線を落とした。


綱吉の髪も同じように風に揺れて、そして綱吉自身も揺れていた。


寝てるし。


ついさっきまで普通に話していたのに、きっと昼ご飯をたくさん食べたからだろう。
やっぱりまだまだ子供だ。

どこからかひらひらと飛んで来た白いちょうちょが、
綱吉のゆらゆらする頭に留まりそうになってまた羽ばたいて行った。


何これ。
のどか過ぎる。


ここは泣く子も黙る六道一家の、と思って止めた。
綱吉の前ではそんな言葉も間抜けに思える。

「起きなさい。いくら暖かいからと言って、」

ちょっとだけ、とすでに寝惚けた小さな声がして、
傾いた上半身がぽてりと骸の膝の上に乗り上げる。
それを見た子犬がぱたたと駆けて来て小さな尻尾を振りながら骸の膝に乗ると
顔を綱吉の腕に乗せた。

飼い主に似ると、どこかで聞いた覚えがある。
確かによく似ている。

すぐに穏やかな寝息が聞こえた。


まだほんの少し冷たい空気の中で、ちりちりと肌に当たる日がとても柔らかで温かい。


晴れた空には千切ったような雲が滲んで緩やかに風が凪ぐ。


運河の水を割りながら、貨物船がゆったりと進んでいって、
小さな波を起こした水面は尚も光を弾いてきらめいた。


ちゃぷんちゃぷんと水の音がする。



穏やかだ、と思った。



こんなことを思ったのは、もしかしたら、初めてかもしれない。



膝の上ですやすやと眠る綱吉の髪が光を受けて淡く透ける。


子犬の鼻先を指でくすぐると、寝惚けたように小さな小さな鼻をくんくんとさせた。



ほんのついでのようにふわふわと揺れる淡い色の髪をそっと梳いた。



すでに夢の中のように綱吉は丸い頬に落ちる睫毛を小さく揺らした。



どんな夢を見ているのだろう。



丸い頬に指を滑らせると、とても温かかった。


けれど、


「あ!何らこいつら!骸しゃんの膝の上で寝るなんて生意気ら!」

塀の上からひょっこり顔を出した犬が揺り起そうと伸ばした腕を、骸は制した。

「どうせ揺すっても起きませんよ。放っておきなさい。」

骸がそう言うと、犬は塀の上に顔を置いて不思議そうに骸を見詰めた。

「・・・何ですか?」

「骸しゃん、こいつらに甘ぶっっ」

顔面に見事に食い込んだ裏拳に、犬は塀の向こうに落ちて行った。

屋根の上の錆びた風見鶏が空の中でくるくる回った。



そろそろ、夢から覚めるときだ。



日が暮れるにはほんの少し早い時間、
綱吉はいつものように犬と千種に両脇を固められて屋敷まで強制送還される。

「骸、また明日ね。」

そう言って小さく手を振ると、骸はアジトの扉に寄り掛かったまま小さく言った。

「もう来ないでください。」

「・・・え?」

きょとんと瞬きをする綱吉にも、骸はただ淡々と言った。

「もう十分でしょう?」

骸は酷く不安そうに見上げてくる綱吉からふい、と視線を逸らした。

「明日、この街を出ます。」

「それなら俺も、」

「迷惑なだけだ。そろそろ自覚しなさい。」

吐き捨てるように言って骸はアジトの中へ戻って行った。

傷付いた空気を纏う気配も完全に無視をして。



夜にかけて風が強くなってきて、冷えた空気の中で空には星が散らばっていた。

深夜と呼べる時間帯に近付いてから、窓を揺らす風に混ざって硝子を小さく叩く音がした。

骸は目を見張ってからまさかと思い窓を開けると、
窓の外には眠った子犬を抱いて凍えた手を擦り合わせる綱吉がいた。

綱吉の大きな目の縁は月明かりでも分かるほどに赤く染まっていて、
けれども骸はただ緩く瞬くだけだった。

「・・・俺、骸と一緒に行きたい・・・」

春先といえど夜はまだ寒い。
綱吉は小さく震える手を握り締めて、何も言わない骸を不安そうに見上げ、
それでも懸命に言葉を紡いだ。

「俺、ずっと骸と一緒にいたいと思ってて、それで・・・」

冷たい空に浮かぶ氷の月のように、感情を映さない骸の瞳に綱吉はとうとう怯んで大きな目を伏せた。

さっきよりも随分と震えるような指先は赤く滲む。

そして綱吉はそっと目元を滲ませた。

「・・・俺、あの家にはもういられない・・・あの家を出たいんだ、」

「それなら」

抑揚のない声に綱吉はびくりと肩を震わせた。

「僕を当てにするのは見当違いにもほどがある。」

「ちが、そうじゃなくて」

「迷惑だと言ったのが分かりませんか。僕は、」

厚い水の膜の中で揺れる大きな瞳に映った悲しみの色に、骸はそれでも言葉を続けた。


「君のことが嫌いです。」


感情の籠らない声は余計に冷たさを増した。


小さな震える唇はごめんと呟いて微笑んだが、すぐに震え出してきゅっと引き結ばれて、
閉じられた唇の上を涙が滑って落ちて行った。

まるで逃げるように踵を返した小さな背を見てから、骸は部屋の外に声を掛けた。

「犬、千種、」

声を聞きつけてほどなく姿を現した犬が綱吉の背を見付けてあっれーと声を上げた。

「チビら!」

「ちゃんと屋敷まで帰るか見張って来なさい。声は掛けないでいいですからね。」

「あいー、」

「骸さま、」

「早く行きなさい。」

千種は体を翻した骸に小さく一礼すると、綱吉と犬を追うように窓を越えた。


2010.02.28