ひたりと浸けた爪先から、
鏡のような水面に穏やかな輪が広がる。
冷たさは感じない。
感じるものはただ、飲み込まれていく感覚だけ。
少し、怖い。
いつからか、水が嫌いになった。
いつからかは、分かっている。
ゆっくりと体が沈んでいく。
ぴたりと体を包み込む、水。
(やっぱり嫌いだ。)
ただ静かな水の中、
気泡が弾ける音だけが聞こえる。
髪が優しく揺らめいて、足を着けた水底から
ふわり、と砂が舞った。
綱吉はゆっくりと目を開けた。
とても澄んでいるけれど
暗闇のせいで先が見えない。
(なにも、見えない)
心の中で呟くと
水の中よりも静かな声が返る。
(これでは?)
光が差す音が聞こえるようだった。
カーテンを引き開けるように闇が開けていく。
けれど、やはり見渡す限りただの水だった。
水しかなかった。
口の端から気泡が漏れて
小さな音を立てる。
不意に息苦しさを感じた。
苦しくなる筈などないのに、
体が酸素を求めて震える。
見上げると水面に黄色い月が揺れていた。
地面を蹴ろうとするが上手くいかない。
焦れた綱吉の口から空気が漏れ続ける。
(くるしい、息、吸えない)
助けを求めるように腕を伸ばすと、
引き上げられるように急激に体が水を割り、水面へ向かう。
感じる筈のない水圧に負けぬよう目を見開いて
ただ一点、黄色い月を見据えていた。
ごぼりと音を立てて水面を割った瞬間、
水を弾いた眼球に映ったのは、赤い月だった。
酸素を求めて大きく口を開けた瞬間、目が覚めた。
ずぐずぐと心臓が音を立てていて、
嫌な汗がひっそりと額に浮いている。
乱れた呼吸を小さく整えて、
綱吉は指を絡めていた手を握り直した。
「・・・水、嫌いなのに。」
咎めるように呟くと、
隣でくすり、と小さく笑う声が聞こえた。
顔を上げると赤い瞳が楽しそうに細くなった。
あの赤い月は骸の目だったのかと
何となく思った。
「おや。それは初耳ですね。
今の夢は君が望んでいたものですよ。」
「嘘。」
不貞腐れて見上げると、骸はそれに倣って
綱吉のその小さな鼻に鼻先を寄せた。
「本当。」
納得出来ないのを態度で表わすように
綱吉はふい、と顔を背けてしまう。
「何故、嫌いなのですか?」
「理由なんてないよ。・・・骸」
綱吉はソファに膝立ちになって
骸の肩に手を添えた。
骸が支えるように脇腹に手を添えてくれたので
そのまま重心を傾けて骸を押し倒してしまう。
「骸、むくろ」
骸の体に完全に乗り上げた綱吉は
淡い仕草で唇に吸い付く。
「ク、フフ」
「笑った。」
拗ねるように顔を埋めてしまった綱吉の髪を
宥めて撫ぜる。
「嬉しいとね、笑ってしまうのですよ。」
いやいやをするように骸の顔に擦り寄る。
骸はまた笑い声を洩らしそうになったが
堪えて微笑むに留まった。
「ねぇ、何故水が嫌いなのですか?」
柔らかくはあるが、確かな答えを言わないのを
許さない強引さを孕んでいた。
「理由なんてないよ。」
「嘘。」
咎める色が強い声に、綱吉は顔を上げた。
「本当。」
言ってまたすぐ顔を埋めてしまった。
「全ての事に理由はありますよ?
例えば今こうして、君と僕が一緒にいる事にだって。」
「・・・そうかも、しれないけど。でも、理由がないものだってあるよ。」
骸、骸、と呼んでまた唇に吸い付く。
僅かに震えた唇が、頬へ滑っていった。
「だって俺が骸を好きな理由なんてないから。」
「おやおや。」
落胆を隠さない骸に綱吉は首を振った。
「いい意味でだよ。勘違いするなって。
好きな理由がないから、嫌いになる理由もないんだ。
だからずっと好きでいられる。」
「クフフ」
「また笑った。」
「失礼。嬉しくてつい、ね。
ですが君が傷付くならこの癖は直さねばなりませんね。」
「ごめん。傷付いてなんかない。直さないで。」
未だ顔を伏せたままの綱吉の背に
優しく手を滑らせた。
「どうしました?今日はご機嫌斜めですか?」
「だって、お前が意地悪するから。」
「先ほどの夢の話し?」
「違うよ、それが意地悪って言ってるんだよ・・・!」
弾かれたように顔を上げた綱吉の頬には
涙が幾筋も伝っていて
骸は見惚れるように目を見張った。
「本当は、」
しゃくり上げた綱吉の頬に、
柔らかく手が滑った。
涙が一粒、骸の頬に落ちて
吸い込まれるように消えた。
「本当は、一緒に沈んじゃいたいと思ってるの
知ってるくせに・・・・!」
大きな声ではないのに、
胸を抉られるような、
酷く痛みを伴う声だった。
「クフフフ」
「・・・笑った」
「ええ、嬉しくて。」
体を起こして腹の上にいる綱吉を抱き竦めた。
今度は骸からキスを贈った。
頬に、額に、唇に、何度もキスをする。
静かに涙を落とす綱吉は
瞳を閉じて受け入れた。
「君が水を嫌う理由も、自惚れてしまいそうです。」
「・・・自惚れて・・・」
骸は柔らかく目を細めた。
「・・・それなら君も知っているでしょう?」
瞼を落としたままの綱吉の頬につう、と涙が伝った。
「僕がそれを望んでいない事を。
君には、陽の下が似合う。
僕は、このままで十分幸せです。」
「・・・嘘。」
「本当です。・・・本当だという事にしておきます。」
はっと目を開けると、
困ったように笑う骸と目が合った。
遠くで気泡の弾ける音がする。
「・・・余り、誘惑しないで下さい。
その気になってしまいそうだ。」
なってもいいのに。
綱吉の言葉はキスで塞がれた。
キスは、水の香りが強かった。
「なぁ、すぐ会いに来て・・・
またすぐ会いに来て・・・!」
ふと笑った骸の唇はとてもつややかで、
とても透明だった。
「綱吉の我儘は、とても嬉しい。」
唇が包まれて、少し苦しかった。
まるで小さな魚が跳ねるような水飛沫に濡らされて、
けれどすぐ何事もなかったように乾いてしまった。
「骸、骸・・・」
流れていった水を追って、
綱吉は床に体を落とす。
床の狭間に指を滑らせても乾き切っていて、
骸もそこにいなくて、
綱吉の涙だけが染みを作った。
綱吉はそっと床に頬を付けた。
「むくろ・・・」
せめて涙だけでも一緒に連れて行ってくれればいいのに。
そしたら水の中でひとつになれる。
水は嫌いだ。
大嫌いだ。
愛おしいあの人を連れて行ってしまうから。
もしも願いが叶うなら、あの人を優しく包む、
水になりたい。
09.02.01
水に嫉妬する綱吉。
本当は連れて行っちゃいたい骸。
でもひとつになるより
触れ合える方が幸せなのを知っている二人。
ジレンマですな。