こんなに長い時間骸と連絡を取らなかったのは初めてだった。
(心配、してくれてるかな・・・、)
心のどこかで、骸はもう自分に興味がなくなってしまったのではないかと思っていた。
触れてくれないという事は興味がなくなったのではないかと、子供ながらにそんな風に思う。
帰り道の、学校帰りの学生たちの明るい声や、夕飯の買い物をする親子や、
そんなささやかな幸せの風景も心に沁みるほど痛くなって、俯いて歩く。
あんなにも幸せを感じていた骸との生活は、気付かない内にどこからか、亀裂が入っていたのだろうか。
何が起きても骸に対する愛情は変わらない、絶対に。
だから今は、骸と話しがしたい。
何を言われても、何を聞かされても、骸と話しがしたい。
門の前まで来て、車庫に車が止まっているのが見えた。
(帰ってきてる・・・!)
急いで門を押し開けて、庭を駆けて行った。
飛び込むようにして玄関を開けると、そこにはもう、骸が立っていた。
「綱吉。」
いつもより低い声に笑顔はなく、体を強張らせた綱吉の後ろで玄関の扉が重い音を立てて閉じた。
「今まで、どこへ?」
「あ、あの、携帯持って出るの、忘れて、」
「ええ。寝室にありました。」
言って骸は携帯を顔の高さまで掲げると、静かに棚の上に置いた。
「学校にも行ってない、家にもいない、携帯も持ってない。」
「あ・・・、あの」
「心配、しましたよ。」
寄せられた眉根に、瞳の色に、怒りではなく純粋な心配が乗せられていて
綱吉ははっとしてから、少しだけ頬を染めて申し訳なく俯いた。
「ごめん、なさい・・・、」
「それで、どこへ?」
「や、まもとの・・・家に、」
「何をしに?」
けれど声色は次第にきつく問い質すようなものへと変化していき、
苛立ちを滲ませたそれに、綱吉は瞳を彷徨わせた。
「事故に遭ったって、聞いてそれで、」
「それが、どうかしましたか?」
感情なく冷たく言い放って、目を見張った綱吉の腕を強く引いた。
綱吉は前のめりに玄関に乗り上げて、スニーカーが片方だけ脱げて転がっていった。
「あ・・・!」
きつく体を壁に押し付けられて、掴まれた腕がぎりと痛んだ。
「彼はただのクラスメイトだと言いましたよね?それなら彼が怪我をしようが
死のうが君には関係ない筈だ。」
捲し立てるように言い捨てられて、綱吉が見張った目で見上げれば
骸は苛立ちを露わに眉根を寄せていた。
綱吉の小さな唇が微かに震えた。
「父、さん・・・それ、は違う・・・それは違うよ・・・」
細い声で震えるように首を振ると、骸の瞳は冷たさを帯びた。
「何が違うのですか?」
すぐそこで細められた目は、ただ、冷えていた。
「父さん、なの・・・?」
疑念を払拭したくて呟けば、骸は鼻を鳴らした。
「僕が?彼を?」
歪んだ笑みを浮かべる口元に、直感的に骸は違うと思った。
けれど違うのなら、何て酷い事を言ったのかと、綱吉は自分に愕然として体が震えた。
「父、さん、」
「確かに、彼がこれ以上君に慣れ慣れしくするのであれば、或いはそうしたかもしれない。」
「父さん・・・!」
謝りたくても冷えた声は、綱吉の声を潰すように言葉を紡ぐ。
「本当ですよ。君が思っている通り、身の程も知らないで君に危害を加えた人間は
僕の指示で黙らせました。僕が直接手を下した訳ではありませんが、完全に僕の意思です。」
「・・・ぅ、」
見張った目を揺らした綱吉を更にきつく壁に押し付けて、
強引に唇を合わせると舌先を滑り込ませて、乱暴に口内を犯した。
噛まれて切れた唇から、微かな血の味が舌に広がった。
掴まれた腕が、押し付けられた背が、痛い。
ようやく離れた唇に、は、と息を短く吸い込む。
骸の唇が生々しく濡れていて、綱吉は呼吸を震わせた。
その唇が、歪に笑う。
「ねぇ、そんなに僕が嫌いですか?」
「な、んで、そんな、」
綱吉にとって唐突過ぎる言葉は声を詰まらせ、
それでも骸が少しでもそう思っていた事実に愕然とした。
「だってそうでしょう?連絡もしてこない、勝手にどこかに行く。彼の方が大事なのでしょう?」
確かに、大事だ。
けれど、違う。
どちらの方が大事かなんて、比べる所にはないのに。
骸に対する気持ちは、山本とは全く違うものなのに。
「そうやって僕を疑って、僕より彼の方が大事なのでしょう?
ずっと連絡もしないで僕を置いて、彼の所にいたのでしょう?」
「ちが、」
「どうしたら君は・・・!」
突然声を荒げた骸に、綱吉はびくりと体を震わせた。
「僕のものになるんだ・・・!」
悲痛なまでに寄せられた眉根は、泣き出しそうな顔にも見えて
綱吉に体を裂かれるような痛みが走った。
父さん、と口だけが動いて声にならない。
「あの隼人とかいう男も君から引き離すために柿本に引き取らせたのに、
君はあんなに悲しそうな顔をして・・・!ずっと君だけ見てきたのに・・・!」
どうしたら君は、と掠れた声が耳元で呟く。
綱吉の頬に涙が滑った。
「こんなに、愛してるのに・・・!」
縋るように強く抱き締められて、綱吉の胸は締め付けられた。
「父、さ、」
ただその広い背に腕を回す前に、骸の表情がふと消えた。
「もうこの家から出ないでください。」
「え・・・?」
「この家から一歩も出るな、と言っているのです。」
理解するより早く腕を強く引かれて、綱吉は引き摺られるようにして連れて行かれる。
怖かったのはどこに連れて行かれるのかではなく、自分が骸を嫌っていると思われている事だった。
「俺・・・!父さんの事嫌いな訳ない・・・!好きなのに・・・!」
「そんな事を言っても逃がしませんよ。」
振り向いた骸は、何がおかしいのかふと笑った。
けれどその笑みは綱吉のよく知る骸の笑顔ではなかった。
嘘で貼り付けられたような、感情のない笑みだった。
そわ、と背中を冷たいものが這う。
「流されているだけでしょう?」
「な、に言って・・・?」
「僕だって始めからそう思っていた訳ではありませんよ。ですが、最近の君の行動はそうとしか思えない。」
骸の表情が歪む。
そんな、と口だけが動き、あまりの絶望に音にならない。
きつく握られた手首はもう痛いとも思わず、抵抗もせずにただ背を見ていた。
こんなに近くにいるのに骸が遠い。
綱吉は声を殺す事も出来ずに泣いた。
こんなに愛しているのにと言いたいのは綱吉も同じだった。
けれど今は何を言っても届かないのだろう。
連れて行かれた地下の部屋は薄暗く、その中にそっと入れられた。
綱吉はただただ泣き崩れ、骸はその姿に少しだけ瞳を揺らす。
けれど、それだけだった。
「後で様子を見に来ます。」
ひどく静かな声だった。
ゆっくりと閉じられていく扉に部屋が、綱吉が、淡い闇に包まれていった。
閉じ込められたのが悲しいんじゃない。
骸と心が擦れ違うのが悲しい。
例えばこのままこの薄暗い部屋にいたとして、そうしたら骸は前のように笑ってくれるのだろか。
信じて、くれるのだろか。
床に涙がぱたた、と落ちた。
でも、それは違う。
きっとは、あの嘘で貼り付かせた笑顔しか見せてくれなくなるのだろう。
綱吉が何を言っても届かないのだろう。
それはあまりにも苦しくて、悲しい。
綱吉は悲しみに濡れた顔を上げた。
部屋を見回せば、幸いにも通気口替わりの細い天窓があった。
顔を乱暴に拭って立ち上がる。
配水管に足を掛けてなんとか窓に指を届かせたが、ふらつく体で床に身が投げ出される。
痛くなんかない。
もっと痛いものを知ってるから。
心が痛むのに比べれは、こんなの痛くなんかない 。
綱吉は立ち上がると、また配水管に足を掛けて、腕を伸ばした。
鍵に指を掛けて、弾くようにして押すとぎこちなく鍵が開いた。
(開い、た・・・)
細い天窓は、それでも綱吉が通るくらいは余裕があって、壁をよじ登るようにして体を外へと押し出した。
目の前に庭の芝生が広がる。
荒い呼吸のせいで芝生が口に入り込んだが気にする余裕はなかった。
土を掻くようにして、何とか体を引きずり出して屋敷を見上げた。
(父さん・・・、)
後で来ると言っていた。
自分がいないのが分かった時のの気持ちを思うと胸が裂かれるように痛かった。
けれど今は冷静に話す事なんて出来ない。それは、綱吉も。
骸とちゃんと向き合いたい、分かり合いたい。
だって、こんなに愛しているから。
綱吉は意を決して唇を引き結ぶと、片方脱げた靴のまま、外へ向かって駆け出した。
09.08.02