※わあ、と歓声が聞こえた。
骸は窓の外に視線を投げた。隣の高校の校庭で、体育の授業が行われている。サッカーをしていて、どうやらどちらかのチームがゴールを決めた様だ。ゼッケンを着けている方の生徒達が軽く小突き合ったり、肩を組んだりして喜んでいる。
「…」
骸は数学の授業を放って窓の外を眺めていた。
柔らかい午後の陽射しに溶け出しそうな髪の色を見付けた。ゆらゆらと揺れて、滲んで広がっていきそうだ。一人だけ周りの生徒よりも華奢で、ボールを一生懸命追い掛けているけどイマイチ追い付けていない。息苦しそうな呼吸がこっちまで聞こえてきそうだ。
蹴り上げられたボールが逆サイドへと飛ぶ。少し汚れたボールが太陽の光りを弾く。思いの外距離を伸ばしたボールが放物線を描いて、甘い色の髪へと向かう。
骸は(あ)と心の中で思った。
時間の流れが遅く、やけにゆったりとした流れでボールが顔面に近付いていく。男子はあの日の電車の中の様にぴっちりと動きを止めて、自分の顔に向かってくるボールを見ていた。
ぶつかる。
「六道」
名前を呼ばれてはっと顔を教壇に向けると、数学の教師が少し不思議そうに骸を見ていて、教室に小さな笑い声が溢れた。
「珍しいな、お前がぼうっとしているのは」
どうやら何度も名前を呼ばれていた様だ。この問題を解いてみろと言われたので教壇に向かう。立ち上がる途中にまた何気なく外を見ると、男子は校庭に尻もちを着いて顔を押さえていて、周りに他の生徒達が駆け寄って来ていた。みんな笑っていて何だか楽しそうだった。
骸は睫毛を伏せてから黒板に視線を戻す。
解いた問題はもちろん「正解」だった。
授業が終わるまで骸は外を見なかった。


※言って手に取った問題集を宙に浮いたままの手に渡すと、男子は表紙を見てぱちぱちと瞬きをした。
「これ…中学生のだよ…」
少し泣きそうな情けない表情が少し面白かった。けれど骸は特に笑いもせずに、淡々と言う。
「中身を見て答えられますか?」
男子は素直に中を開いて、う、と声を詰まらせた。
「わ、分かんない…」
「基礎が出来ていないのに、応用が出来る訳ないでしょう。その問題集は分かり易かったので、お勧めです」
「…ありがとう」
ぽつんと言われたお礼にふと眉を持ち上げて、骸は更に奥の本棚に行こうと足を進めた。
「あ、あのさ…!」
呼び止められると思ってなくて驚いて振り返ると、男子はへにょんと情けなく眉尻を下げていたけど、真っ直ぐ骸を見ていたので面喰ってしまった。けれど男子はそれに気付かず、もごもごと口を動かす。
「あの…他にも分かり易いのあったら…教えて欲しいんだけど…」
「…」
骸はふと我にかえって本棚に歩み寄った。
「どの教科が必要なんですか?」
「え…と、数Tと、数Uと、科学と…あと現代語と」
「……全部ですか?」
「……うん、全部……」
骸は瞬きをした後、思わず吹き出した。
吹き出してしまったらもう止まらずに、肩を揺すって笑う。男子は頬を赤くし驚いた様に目を丸くした。骸は笑っていたのでそれには気付かなかった。
「わ、笑った…」
「それは笑いますよ。思った通りだったので」
「え…! あ、うん!」
「?」
少し噛み合っていない気がしたけど、骸は可笑しくて仕方なかったのであまり深く考えず、本棚に目を滑らせる。
教材で分かり易かった物を思い返してからふと首を傾げ、少し考え込んだ。ふと男子に視線を戻すと、男子は驚いた様にびくんと体を跳ね上げる。
「僕が使っていたのでよければ、家にありますけど」
「え…! あ、でも使うんだろ?」
「いいえ。基礎はもう十分ですが、捨てるタイミングを見失って積んであるだけなので。書き込みはしてありますが、邪魔にはならないと思います」
男子は躊躇う様に瞬きをした。
「どうせ捨てる物なので、君が良ければ、ですが」
男子はもう一度瞬きをしてから、頬を紅潮させた。骸は分からない位だけど、瞳を揺らした。
「いい、の?」
「いいと言っているでしょう」
男子はびくんと飛び上がってから、おずおずと口を開く。
「じゃあ、あの…欲しい…凄く」
「分かりました。君が補習の日はいつですか? 僕が学校に用事がある日と重なっていたら、その日に持って行きますから」
「え! それはさすがに悪いよ…あ! そうだ、オレ、家まで取りに行くよ!」
「え…?」
男子は赤味の引かない頬のまま、はにかむ様に微笑む。
「使ってる駅、隣同士だよね…前、降りて行くの見た」
骸は思わず、目を見張った。それを見て男子は慌てて手を振った。
「あ…! 迷惑じゃなきゃだけど…!」
骸はふと我に返り瞬きをすると目を緩く逸らした。
「…別に、迷惑ではありませんが」
「そっか…良かった。隣の駅ならチャリンコで行けるし」
骸はちらと男子に視線を落とした。
「…そういえば僕はまだ、君の名前を知らない」
「え!? あれ、そうだっけ! あ、オレは沢田綱吉」
沢田綱吉、と骸は心の中で繰り返す。
「僕は」
「むくろ君…って言うんだろ?」
目を見開いた骸に、綱吉は照れた様にへへと笑う。
「夏祭りの時、そう呼ばれてたから」
静かに鼓動が速まっていく。
その意味すらまだ、よく分からないのだけれど。
「…六道、骸です」
名乗ると綱吉は静かに瞬きをした。水分を含んでいる瞳が硝子玉の様に澄んで見える。