※(退屈だ)
ジョットは再び心の中で繰り返した。
冷たい空気の中で体が冷えて死体の様に思えたけど、口の中のオレンジがジョットを現実に引き止めていた。
ジョットは小道を歩き、アパートメントを目指す。
人気のない石畳の上を歩いていると、淡いピンクのアパートメントの前を歩いているDを見付けた。眉間に皺を寄せてジョットに気付くと、ゆったりと立ち止った。眉間の皺は消えない。ジョットは反対にふと笑んだ。
「お迎えか?」
「……」
Dが無言のままでいるけど、ジョットは微笑んだまま歩み寄った。並び立つと二人は無言のまま並んで歩いて、アパートの階段を上って行く。
「尾行はされていませんね?」
「ああ、撒いた」
Dが部屋の鍵を開けて明かりを点けた。ストーブは消したばかりだった様で、部屋は温かいままだった。
「予定より帰りが遅かったので」
Dはストーブを点けながら振り向きもせずに言った。
「ああ…だから迎えに出ていたのか」
Dは無言のままだった。頬に掛かる髪のせいで、その表情は伺えない。ジョットはDの後ろ姿を見て静かに睫毛を伏せると、コートを脱いで椅子に掛けた。
部屋の中はストーブの音だけで、Dはやがて振り返るとジョットに歩み寄り、口から飛び出ている飴の白い棒を引き抜いた。ちゅぱ、と短い音が漏れてオレンジの飴の先から唾液が伸びるけど、Dは気にも留めず、そのままゴミ箱に放った。
「まだ舐めている」
「それならゴミ箱から拾って舐めたらいかがです」
ジョットは緩く肩を竦めた。
「いや、いい」
「この顔のまま帰って来たのですか?」
ジョットの言葉の語尾に被せて言ったDは、ジョットの顎を乱暴に掬った。ジョットの白い頬に細かい血飛沫が二、三点こびり付いている。
「誰にも見られていない」
「そういう問題ではありません」
※昼下がりのカフェは陽が射していると言えど、冷えた空気のせいでテラスに出ている客は疎らだった。
ジョットはその中の一つのテーブルに歩み寄った。コツリと革靴が鳴ると、折った新聞に目を通していた赤と青の色違いの瞳がゆったり持ち上がり、仄かに見開かれた。
「おやおや。これはこれは」
「ここ、いいか?」
「もう座っているじゃないですか」
呆れた声にジョットはふと笑う。正面に座って真っ直ぐその珍しい瞳を見返した。
「元気そうだな、骸」
「ええ、お陰さまでね」
骸は新聞をテーブルの上に置いて、改めてジョットを見遣った。
「何のご用件ですか? たまたま僕を見掛けて懐かしくて声を掛けた、何て訳はないでしょう?」
訝しんだ表情を隠しもせずに骸はジョットの目を射抜く。ジョットが口を動かす前に、ウエイトレスが淡い粉雪の様な砂糖が掛かったガトーショコラを骸の目の前に置いた。骸は怪訝な顔のまま見上げるが、ウエイトレスは気にもせず、骸の冷めきったカップにエスプレッソを注ぎ、ジョットの前にも湯気が立ち昇るエスプレッソを置いた。特に愛想笑いもせずに店の中に戻って行ったウエイトレスを怪訝な顔のまま目で追っていた骸は、その姿が見えなくなってからようやくジョットに視線を戻した。
「何ですか? これは」
「奢りだ」
言ってジョットは自分のカップに砂糖を注いだ。骸は怪訝な顔をするが、結局フォークを取った。
「それで、用件は?」
骸は先を促す様にもう一度言った。
「恋人が出来たそうだな。引退したのもそれが理由だとか」