空は灰色の雲に覆われていて、その下を黒い雲が強く風に流されていた。
嵐が来る気配が強く、官庁の職員も早目に帰路に着いていた。骸も帰れなくなると綱吉に会えなくなるので、部下を全員帰らせて自分も綱吉の待つ屋敷へと帰った。
屋敷に戻って玄関の扉を開くと、凪が酷く翳った顔で殺気立ち、握っている包丁の切先を骸に向けていた。
「・・・凪。意味が分かりません。とにかく包丁を下ろしなさい。」
凪は殺気立ったままこくりと頷くと、包丁をどすんと床に刺してその横に正座した。
「どうしました?」
凪は包丁の柄を握ってざくざくと床を何度も刺しながら口を開いた。
「・・・骸さま、ご返答によっては骸さまを殺して私は死にません。」
「死なないんですか・・・いや、それよりまったく状況が分かりません。主を殺すと大罪ですよ?」
「それでも骸さまは死にますよね。」
凪の瞳がぎらと殺気を乗せた。
「・・・。」
まったく分からない。朝屋敷を出たときはいつも通りだったのに、いつの間にこんなに恨みを買ったんだ。
「とにかく包丁を置いて、事情を説明しなさい。」
凪は名残惜しそうに包丁をその場に刺して、「こちらへ」と言うと屋敷の中へ入って行った。
骸も訳が分からないまま凪の後ろを着いて行く。
そういえば綱吉の姿が見えないと思っていると、座敷から綱吉の声と、聞き慣れない子供の声が聞こえた。
凪が障子を鷲掴んでびりびりぽきぼき音を立てながら、障子を開いた。
今日の凪は一層荒っぽい。
何事かと座敷の中に視線を向けると、綱吉が子供を膝に乗せて遊んでいた。
(子供、)
まさか綱吉と自分の間に子供が出来たのかと一瞬嬉しく思ったが、冷静に考えると子供が出来るようなことさえしてないし、男同士だったと思い出す。
膝の上の子供は骸に気付くと、綱吉の方を向いて綱吉に抱き付いた。
「この人ぜったい違いますーミーの父親じゃないですー」
「フランくんは小さかったから覚えてないんだよ。」
「えーなんか気持ち悪いし、生理的に受け付けないっていうかー」
骸は顔を翳らせた。
なんなんだこの子供は。さっきからずっと綱吉の膝に座って挙句抱き付いたりして。夫である自分だってしたことがないのに。
「今すぐ離れろ。」
骸はフランと呼ばれた子供の襟首を掴むと、容赦なくぐいぐいと引っ張った。
「おえっめちゃくちゃ大人げないんですけどー」
言いながらもフランは綱吉にしがみ付いている。骸は更に顔を翳らせた。
「なんなんですか、この子供は。」
ぎりぎりと歯軋りしそうな勢いで言うと、綱吉は骸の手を叩き落としてそっとフランを抱き直した。
庇われた上にフランが舌を出したので、危うく抜刀しそうになった。
「何ですかこれは。」
堪らずもう一度言うと、綱吉はあっさりと答えた。
「骸の子だよ。」
後ろでぼきゃぼきゃと何かが折れる音がした。間違いなく凪が何か折った音だ。
大体自分にこんな小さな子供がいるはずない。
「貴様・・・君は何歳ですか?」
「見て分からないんですかー?3歳です」
「分かるか。3歳と言うのなら絶対に僕の子ではありません。」
綱吉と出会ってから7年、誰にも触れていないんだ。出来ようがない。
自信を持って言い切ると、綱吉はそっと凪を呼んだ。
「フランくんを向こうに連れて行ってくれる?」
「はい。」
フランを抱き上げた凪は骸に向かって一礼した。
「骸さま殺します。間違えました。失礼します。」
どんな間違え方だ。けれどこの子供のことで怒っているのなら、ただの誤解だ。
「子供の前であんなこと言っちゃいけない。あの子が傷付く。」
「あの子供が?」
呆れたような骸の声が聞こえたのかは分からないが、廊下の奥から「キモイですー」と子供の声が聞こえてきて、骸の中で何かが切れそうになったが何とか堪えた。
今はそれどころではない。
「大体、あの子供は僕の子ではありません。」
綱吉は骸の声が届いていないように言葉を遮った。
「昼間、大将さまのお嬢さんが来たんだよ。」
「え?」
大将の娘、と言われて一瞬分からなかったのだが、この間の晩餐会で会ったのを思い出した。
けれどどういう繋がりなのかまったく分からなくて首を傾げると、綱吉は俯いて自分の指先を見詰めたまま言葉を続けた。
「骸との結婚はもう諦めたから、せめてもの責任で子供を引き取って欲しいって、」
「はい!?」
まるで身に覚えがない。名前も知らないのにどうしたらそうなるんだ。
あの子供はもしかしたら本当にあの娘の子供かもしれない。
よくあることだ。上流階級の娘が戯れに男と関係を持って身籠ったら、ひっそりと生んで使用人か誰かの子供として育てさせる。よくあることだ、珍しくもない。
あの娘はきっと今まで何でも思い通りになったのに、骸だけが思い通りにならなかったからプライドが傷付いたのだろう。
家庭を壊すことで仕返しをしているつもりなのだろうか。
(あの小娘・・・)
骸は目を細め、いずれ引き摺り下ろす予定だったが、血族すべてを路頭に迷わせることを心に決めた。
「他にもたくさんいるんだってね。随分泣かされたって言ってたよ。結婚出来ると思って我慢してたけど、財産に釣られて俺と結婚しちゃったからどうしていいか分からないって」
綱吉は指先を見詰めたまま淡々と言葉を紡いだ。
「男なんて気持ち悪くて抱けたものじゃないって言ってたって、教えてくれたよ・・・」
目の前が真っ白になった。
何てことを、言ってくれるんだ。誤解の上に、誤解が重なってしまう。
骸はほとんど無意識に綱吉の腕を引いた。
自分の中にこれほどまでに短絡的で感情的な衝動があるとは思いも寄らなかった。
驚いて目を見開いた綱吉を畳みの上に柔らかく押し付けた。
驚いた瞳で見上げてくる綱吉に骸の影が落ちる。
本当はこんなのを、望んでいた訳ではないのだけれど。
綱吉の首筋に顔を埋め体の線を掌で辿る。複雑な思いに骸は目を閉じた。
抵抗もないまま帯びに手を掛けると、綱吉の掌が骸の頬を打った。
頬を打たれた衝撃に動きを止めて目を見開くと、綱吉は泣き出しそうな顔を隠しもせずに体を引き摺るようにして骸から距離を取った。
体を起こして胸元を押えた綱吉の瞳から、涙が落ちる。
骸の思考はもう随分前から停止したまま、ただ、また泣かせてしまったと思った。
「・・・関係ないって言うのなら、どうしてあの人はわざわざここに来たの・・・?凄く泣いていたんだよ・・・」
そんなの演技に決まってる。
けれど綱吉が世間を知るにはあまりにも優し過ぎて、あまりにも純粋過ぎる。
「・・・骸の気持ちはもう分かったよ。無理してそこまでするくらい沢田を離したくないのなら離婚はしない、俺はあの子と実家で暮らすよ・・・後は骸の好きにしたらいい・・・」
打たれた頬より、胸の奥が痛い。
どうしたら、分かってくれるのか。
「・・・何も、分かってない・・・綱吉は何も分かってません。」
力なく囁くように言うと、綱吉は濡れた瞳を緩やかに持ち上げた。
「・・・綱吉は覚えていないかもしれませんが、僕は綱吉が15の時から綱吉のことを知っています。」
骸は囁くように続ける。今はそれしか出来なかった。
「初めて出会ったときから、僕は綱吉のことだけを想って生きてきました。軍に入ったのも、いつかこうして綱吉と暮らせる日を想っていたからです。」
骸はほんの少し間を置いて、長い睫毛を伏せた。
「・・・でも、綱吉と出会う前はだらしのない付き合い方をしていたのは、事実です。」
「・・・何でそんなこと言うんだよ・・・」
今にも消え入りそうな声に視線を上げると、綱吉の大きな瞳からぼろぼろと涙が零れていて、骸は心が痛くなってそっと目を細めた。
「そんなこと、言わなきゃ分からないのに・・・!」
骸は一度瞼を落としてから、ゆったりと瞳を上げて綱吉を見詰めた。綱吉は怯まずに骸の目を見返している。
「そうかもしれません。ですが、嘘を吐いて適当な言葉を並べて、それでも綱吉の横に居られるほど、君への想いは簡単なものではないんです。他の人間になら嘘も言う、適当な言葉も吐く、ですが君だけには、綱吉にだけは嘘は、吐きたくないんです。」
涙を落とす綱吉に、骸も同じように泣き出しそうに眉根を寄せる。
そして、精一杯の言葉を紡ぐ。
「僕を、信じて欲しいから・・・・」
綱吉はゆらと瞳を揺らして睫毛を頬に落とした。引き結ばれた唇に涙が伝う。
「綱吉、」
言葉を紡ぐのを止めてしまった綱吉に堪らず腕を伸ばすと、思いがけず手を強く払われた。
「触らないで・・・!」
骸は目を見開いた。
綱吉は大きな瞳を涙で歪めて、骸は立ち上がって駆けて行く綱吉の後ろ姿を見ているだけしか出来なかった。
綱吉の背中が遠くなる。
綱吉が今までどんな拒絶の言葉を並べていても、本気で拒絶していた訳ではなかったことを、今初めて知った。
骸は動けなかった、追い掛けて行けなかった。
本当のことなんか言わなければよかったのだろうか。
綱吉には、綱吉だけには誠実でありたいと思うのは傲慢なのだろうか。
骸は目を伏せる。
本当の意味で向き合いたいと思うのは利己的なのか、押し付けなのか。
揺るがない答えは確かに胸にあるものの、綱吉の涙には胸が乱される。
風が強くなって、窓を揺らす。
いつの間にか黒い雲が空を支配していた。
ふと庭に目を向けるといつの間にか綱吉が庭に出ていて、綱吉が一緒に越して来た桔梗の前に座っていた。
骸は瞳を揺らすと、意を決して外へと出た。
湿気を含む風はすぐそこまで雨を連れて来ている。
傍まで近付くが、綱吉は気付いていないのか振り返らない。
骸は綱吉にそっと上着を掛けた。
「体を冷やしてしまいますよ。」
綱吉は振り返らなかったが少し慌てるように頬を拭ったのが見えて、骸は胸が痛くて目を細めた。
「・・・僕は綱吉と出会って、自分のそれまでの行動を恥じて後悔しました。出来ることなら・・・綱吉と出会う前の時間も君だけに捧げたい。君のためだけに生まれて、君のためだけに生きて、君を想ったまま死にたい。」
綱吉は一度俯くと、骸の上着をそのままに立ち上がった。
「綱吉、」
綱吉は睫毛を伏せたまま骸の横を通り過ぎて、そして骸の呼び掛けに緩く立ち止った。
振り向きもしないまま、綱吉は呟くように言った。
「俺、好きな人がいるんだ。」
目を見開いた骸は言葉も探せずに、歩き始めた綱吉を目で追うしか出来なくて、それでもその背中に手が届かなくなる前に自分の想いを音に変えた。
「それでも!・・・それでも僕の想いは何も変わりません。」
綱吉は一度足を止めて俯いたが、それでも振り返らずに屋敷に戻って行った。
強い風に乗った雨が、骸の頬に落ちた。
綱吉が遠くなる。
そうか。この縁談は始めから、綱吉の望まないものだったのか。
誤解を解けば綱吉を幸せに出来ると思っていたのは、思い上がりだったのか。
2010.08.29