骸は朝から抑え切れないほど機嫌が良かった。
あまりの機嫌の良さに、官庁職員や部下が恐怖を感じるほどだった。

鼻に突く人間を潰したのか、或いはどこかの国を潰したのか。
憶測は憶測を呼び、人々が恐怖に陥っているのを気にもせず、骸は上機嫌に執務室に入った。

中で学生の頃からの部下である、千種と犬が、体を強張らせていた。

「・・・骸さま、何かいいことでもおありですか、」

千種がそろりと問えば、骸はまず「今は沢田です。」と注意をした。
「沢田中将。」と言い直すと、骸は形の良い唇を綻ばせた。隣で犬が息を詰めたのが分かる。
骸はこんなに無防備に笑う人ではなかった。逆に怖い。

骸は机の上の重箱を指し示した。

「あ!骸しゃ、沢田中将、それはもしかして愛妻弁当れふか!」

骸は愛妻弁当、という言葉に満足そうに頷いた。

骸が綱吉と見合いをした日の色々は二人とも知っているので、和解したのかと一安心した。
それどころか、弁当まで手ずから作るなんて相当仲が良いではないか。
綱吉と新居に越してからというものずっと機嫌がいいので、それを思い返すと誤解は早々に解けていたのかもしれない。

ほっとして、でも何だか部屋に海の匂いが満ちている気がしてならない。
嫌な予感がしないでもない。

「特別にお前たちにも見せてあげます。」

言って蓋を開けると、ふわりと磯の香りがした。

黒塗りの蓋を更に持ち上げたとき、千種と犬の表情が固まった。


重箱の中、のびのびと針を伸ばし蠢いていたのはウニだった。


「ウ、ウニ・・・」

犬が無意識に言葉を洩らした後、執務室に沈黙が落ちる。
千種と犬は、激しく思考を巡らせた。

一体これはどういうことなのか。
弁当と言って渡されたものは、中身がウニだった。しかも生きたままの。
いや、活きのいいウニが弁当だというのは最高の贅沢ではないだろうか。
ここは海から離れているから、鮮度を保ったまま運ばれるのは高級品でしかない。
と、いい方向へと思考を巡らせるが、体には冷や汗が幾筋も伝わっていく。

あれ、もしかして和解してない?
そこまで思考を詰めたとき、緩い溜息が骸の唇から洩れて、千種と犬はびくりと体を引き攣らせた。

八つ当たりされるかと覚悟を決めて視線を上げて、今度は違った意味の恐怖で思わずばっと視線を逸らした。

骸がウニを見詰めて微笑んでいたのだ。

先程からまるで事情が分からない。分からないなんてものではない。

「綱吉はこの間僕がウニを食べあぐねたことを、気に掛けてくれていたのですね。」

でもだったら家で出す方が自然じゃないのかと言いたい気持ちは、針を飲むような思いで堪えた。
骸が幸せならそれでいいし、八つ当たりされないならそれがいい。

自分に言い聞かせている千種の横で、犬が呆然と呟いた。

「・・・骸さんの奥さんって・・・どんな人ら・・・?」

もちろん綱吉のことは何度か遠目に見ているし、骸が綱吉に一目惚れした後に色々調べさせたれたのは他ならぬ犬と千種だ。
情報だけならたんまりとあるが、実際話したことは一度もないので(骸がそれを許すはずがない)どんな人物なのかは分からない。
淑やかそうに思えたが、骸が叩かれたと言って嬉しそうにしていたことに恐怖も覚えたし、そして今回のウニ弁当。

一体どんな人なんだ。

けれども千種ははっと我に返った。
そんなことを訊いたら駄目だと思ったのも後の祭り。
骸さまは大変ご機嫌麗しく、その形の良い唇を綻ばせた。
そしてその唇は、待っていたと言わんばかりの勢いで、綱吉の自慢を始めた。

こうなったら誰も、止められない。


愛と言う名の爆弾を全身に浴びた千種と犬は、精神力と体力の限界を越えていた。
そんな二人を気にも留めず、骸は「お礼をしなければ。」と機嫌良く言った。

「それなら指輪はいかがですか?」

なけなしの精神力と体力を振り絞った千種がすかさず声を上げた。
骸が幸せなのは大変喜ばしいのだが、もうこれ以上殺傷能力がある所謂惚気を聞く精神力も体力もないので、早々に話を纏めたい。

「指輪、ですか?」

千種は疲弊でずれた眼鏡を直すこともせず、早急に綱吉手帳を引っ張り出すと、ページを捲った。

「奥様は確か西洋の文化もお好きだとか。西洋では結婚した際に、左手の薬指に揃いの指輪をする習慣があるそうです。
永遠の愛の証という意味が込められており、更には奥様が既婚者であることを周囲に認知させられるので、悪い虫も寄って来ません。」

いつになく饒舌になって話しを纏めようとする千種の横で、犬もいつになく冴えた提案をした。

「指輪の採寸も兼ねて、奥さんと一緒に宝石商に行ったらいいと思いまふ!」


そういえば外交で顔を合わせた海外の官僚が、薬指に指輪をしていたように思う。
結婚指輪。綱吉と夫婦であることが目に見て分かるなんて、素晴らしい。

「そうしましょう。」

即決した骸に、千種と犬は思わずわあ!と歓喜の声を上げた。


ウニは育てることにした。


宝石商は後日、時間がたっぷり取れるときに綱吉と一緒に行くことにした。
それなので今日は、磯の匂いをきちんと落とした重箱に、珍しい菓子を詰めて返すことにした。

綱吉は甘いものが好きだから、少しでも喜んで欲しい。

屋敷に帰ると、縁側で綱吉と凪が涼んでいた。骸はそっと口元を綻ばせる。

腰を掛ける綱吉の少し後ろで、ちょこんと正座をしていた凪が骸に気付くと、一礼をしてすっと席を外した。
凪がいなくなったことに気付いた綱吉が、探すような仕草でそっと辺りを見渡して、そしてそれからゆったりと振り返った。

柔らかな月明かりが、綱吉の白い頬を淡く染める。

静かに胸を打った鼓動に言葉を忘れると、綱吉は一度瞬きをしてそっと睫毛を伏せた。
月明かりが綱吉の頬に、影を落とす。

「・・・お帰り。」

微かに目を見張った骸は、それでも緩やかに微笑んだ。

「・・・ただいま。」

歩み寄ると、綱吉はまたそっと俯いた。

「・・・隣、いいですか?」

「・・・うん。」

ほんの少し、もどかしい距離を置いて、骸は綱吉の隣に腰を下ろした。

「これを。」

「・・・え?」

そう言って差し出したのは、桔梗の花を添えた淡い紫の和紙で包まれた重箱だった。

「・・・これ、」

綱吉はそろりと指先を伸ばして重箱を受け取った。

「お礼です。」

綱吉ははっと睫毛を瞬かせてから、ゆるゆると重箱を胸に寄せた。

「・・・別に、いいのに・・・ウニ入れただけだし・・・」

「少しでも喜んで欲しくて。」

綱吉は何度も瞬きを繰り返し、そしてそっと睫毛を伏せた。
ぎゅうと胸に抱かれた重箱に自分の胸まで締め付けられる錯覚に捕らわれて、綱吉の頬を染める赤は、都合のいい想像なのだろうか。

瞳を揺らした骸は上手く言葉が見付からなくて、もどかしく思いながら口を開いた。

「指輪を買いに行きましょう。」

「唐突だよね・・・!?」

「あ、今日はもう遅いので、宝石商が開いている時間に。」

「そういう意味じゃなくてさ!何で指輪なの!?」

「西洋では結婚指輪をする習慣があるそうですよ。揃いの指輪を、」

ここに、と言って、骸は自分の左手の薬指を指し示した。

「夫婦である証と、」

「や!」

即答だった。

「そんなのしたら、骸と結婚してると思われるよ!」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・綱吉、残念かもしれませんが、結婚は事実です、」

綱吉は小さな唇をきゅっと噛んで、伏せた睫毛の下で濡れたような瞳が揺れた。

「こんなの結婚してるなんて言わない!」

「綱吉!」

部屋の中に駆け出した綱吉はぺちゃっと座る様にその場に転んで、胸に抱いていた重箱が跳ねるように畳を転がった。

「・・・。」

「・・・。」

骸は綱吉を立たせてやると、重箱を胸に戻した。
綱吉は重箱をぎゅっと抱いてぱたぱた走って行った。

骸はその後ろ姿を見て、悩ましげな溜息を落とした。

何であんなにいちいち可愛いのだろうか。

けれどすぐにはっと我に返る。

追い掛けて「綱吉!」と呼び掛けると、螺旋階段の上で綱吉が振り返った。

「そ、そんなに追い掛けて来なくたって、どこにも行かないよ・・・!」

目を見張った骸に綱吉は淡く頬を染めて怒ったような顔のまま、重箱を指し示した。

「これ、ありがとう!」

言ってまた階段を駆け上がって行った綱吉に、骸は目元を手で覆って壁に寄り掛かった。


綱吉だけには、どうしたって、勝てる気がしない。


2010.07.18