しとしと雨は降り続けている。まるで涙のように。

骸は机に頬杖を突いて校庭の水溜りに落ちていく雨を眺めていた。いつもより酷く静かで、雨の音が耳に届く。

登校して来た犬がきょろきょろと教室を見渡してから、ぴょんと骸の前に来る。

「骸しゃん、ちっこいのどうしたんれふか?」
「殺して埋めました」
「はい!?!?」
「殺して埋めたと言っているんですよ…!」
「ひいいいいいい!!!!!!」

さすがの千種も後ずさった。

「骸さんが言うと冗談に聞こえない…」

雨に少し服を濡らして教室に入って来たクロームは、ゆったりと首を傾げた。

「ツナヨシ君はまだ具合悪いの?」
「わ!だめだめ!」

犬が慌てて大きく手を振るとクロームはうんと頷いた。

「骸さん可哀想…振られたのねむぐっ」
「本当の事言っちゃダメ!」

慌ててクロームの口を押えた犬だったけど当たり前のようにグーで殴られて、クロームと犬が取っ組み合いの喧嘩を始めても骸は少しぼんやりと外を眺めているだけだった。
そんな骸に、眼鏡を押し上げた千種はぽつりと言った。

「雨、止みませんね…」
「そうですね…」

千種も同じ様に窓の外に視線を投げた。


世界の終わりなんじゃないかと思うほど雨は降り続けている。


けれどもしかしたらそれは自分がそう思っているだけで、これを恵の雨と思う人もいるのかもしれない。

寂しいという実感はまるでない。元々一人だったし、たくさん人がいる場所が苦手でもあった。

そう考えても、部屋に帰れば一人だと思った。

窓の外で今日も雨は降り続けている。

洗面台に立って骸は伸ばしかけた手を止めた。
歯ブラシが、同じコップに収まって寄り添っていた。


雨の音しかしない。


ツナヨシが来てからというもの、ツナヨシの相手で手一杯であんなにも固執していた古傷は、気付けば過去のものになっていた。

それならいつかこの痛みも消えてなくなると言うのだろうか。


あまり眠れずに、ぼんやりとした早朝の静かな景色の中にぽん、と傘の開く音が響いた。


赤い傘はツナヨシを思い出させる。商店街を歩いていた日がもう遠い昔のようだった。

傘を伝って雨粒が落ちていく。手で触れると温かくて、やっぱり涙みたいだと思った。

この雨がもし、ツナヨシの涙なのだとしたらツナヨシは今も泣いているのだろうか。
骸は傘を外して低い雲が垂れ込める空を見上げた。

息が白くなるほど寒いのに雨は酷く温かい。涙みたいだとまた思う。そう言えばすぐぐずっていたなぁと思う。


『骸が笑うと嬉しいんだ』


不意にツナヨシの言葉を思い出した。


泣き虫な君が泣かないように

怖がりな君が震えてしまわないように


骸は一度目を閉じてから再び空を見上げた。

「ツ」「ナ」「ヨ」「シ」

声を出さずに大きく唇を動かして、不器用な、目一杯の笑顔を空に向けた。

一瞬だけ強く降り注いだ雨は、瞬く間に細くなって消えた。

二度と晴れないと思われた雲が、まるで空に溶けるように消えていく。

青々しい木々に忙しなく滴る水滴に太陽の光がきらきらと反射する。

きらきらきらと、とても眩しくて、
世界が輝いて見えた。

目を細めて小さく笑った骸の視線の先には、大きな虹が掛かっていた。



―嬉しかったのはきっと僕の方



泣き虫な君が泣かないように

怖がりな君が震えてしまわないように


笑っていようと決めた


「正直骸しゃん怖いびょん」
「…たまに口元引き攣ってるよね」
「骸さん可哀そう…ツナヨシくんに振られたのが相当ショックなのね…」



季節外れの長雨は、春を連れてきた。
日増しに温かくなる空気に太陽と花の香りが混ざり始める。

学校はもう少しでお終い。少し長い休みの後、学年がひとつ上がる。

見上げた先の目に痛いほどの青空の中、桜の花弁が綻び始めていた。



学校の前に家に帰るのがすでに習慣になってしまって、気付くとアパートの前にいた。今からどこかへ夕飯を食べに行く気にもならなかったので部屋に戻る事にした。
階段を上りきったところで、玄関の前に真っ白なバラの花束が置いてあるのに気が付く。ご丁寧に「ツナヨシさんへ」とカードが挟まっていたがそんなものなくても隣人の仕業だとすぐに分かる。

「…」

助走を付けて目一杯蹴り飛ばしてやると綺麗な放物線を描き、近所の家の屋根にバウンドしてから庭に落ちていった。飼い犬がけたたましく鳴き始めた。

「んなぁ!!!てめー何て事しやがんだ・・・!!!!」

案の定隣人が飛び出して来た。

「ストーカー」
「てめーにじゃねーよ。ツナヨシさんにだ」

もちろん目当てはツナヨシな訳で、骸はむと口を引き結ぶとがちゃがちゃと音を立てて鍵を空け、部屋に足を踏み入れながら捨てるように言った。

「行方不明になりました!」
「はあ!?」

獄寺の素っ頓狂な声を気にも止めず勢いよく扉を閉めるが、最後まで閉まりきらず、怪訝に思って振り返ると 獄寺が足を挟んで扉を閉めるのを阻んでいた。

「何ですか…」

獄寺は険しく眉間に皺を寄せ、顔を逸らしている。そしてやや間を空けてから気まずそうに呟いた。

「…元気、出せよ」

どう取ったのか分からないが、獄寺は無言でがりがり頭掻くとそのまま目も合わさずに部屋へ戻って行った。途中振り返ると憮然と骸を指差す。

「やっぱりてめーにツナヨシさんは任せらんねー!」

骸はぱちと瞬きをするとふんと鼻を鳴らした。

「負け犬の遠吠えですか」
「うるせぇボケ!」

自分の部屋の扉を開けた獄寺に、骸は少し躊躇った後口を緩く開いた。

「獄寺、くん」
「ああ!?!?」

まさか名前で、しかも君付けで呼ばれるとは夢にも思っていなかった獄寺は、目をひん剥いて振り返る。ぞわぞわと鳥肌が立っているのが目に見えるように体を震わせた。

「いえ、別に…」

そう言ったきり黙った骸に、獄寺は不機嫌な訳ではなく口を引き結ぶ。

「どういたしまして!」

獄寺はぶっきらぼうに言ってドア閉める。それにまた少しむっとしてみるし、ここまで合わない人間もそうそういないが、骸はあのがさつな隣人を嫌いではなかった。

少しずつきっと、時間の中に気持ちなんて流れていって薄まっていくものなんだ。ツナヨシと過ごした期間なんて、今まで生きてきた時間と比べればほんの少しの間で、これから続くだろう長い人生に比べたら瞬きをする間のもので。


だから夢だったと思えばいい。


あんなにも現実離れしていたのだから、夢だと思えばいい。


夕焼けの商店街を一人で歩く。
風は暖かいけど何かが足りない気がする。気持ちを意識から追い出そうと睫毛を伏せたとき、名前を呼ばれた。

「骸くん、今日一人かい?」

もう随分と馴染みになった商店街の人に声を掛けられて、骸は静かに足を止めた。

「あの子は…家に帰りました」
「そうか〜…それは寂しくなるね」
「…」

骸は頷くように睫毛を瞬かせるしか出来なくて、でも八百屋の店主は少しも気に止めずにいつもと同じ様に笑った。

「帰りは何時?野菜取っておくから帰りに寄りなよ」
「…あの」
「ん?」

あまりにもいつもと変わらなくて、ツナヨシがいなくても、人の温かさは変わらない。

「いえ…帰りに寄らせて貰います」

待ってるよ!という声に会釈をしてまた歩き出す。

学校へ続く坂道を一人で登る。

初めて出会った公園を通り過ぎようとして、結局骸の足はそこで止まった。

ツナヨシが座っていたベンチは今も変わらずにそこにあった。


夢だと思えばいいと、言い聞かせたけど

でも、

人を好きだと思う気持ちだとか、友人だと思えることとか、
人の好意を受け取る方法だとか、言い出したら切りがないくらいで

夢だと思うにはあまりにも、

残していったものが大きくて

忘れられないから、だから

その小さな体で地上の毒を吸い上げて仕事を全うするのであれば

それで例えば君がいなくなったのだとしても

もしも生まれ変われるのだとしたら

その時は、


その時はー




「骸!」




確かに聞こえた声に骸は目を見開いた。

まさか、と思う。けれど、骸はほとんど反射的に振り返った。
視線の先、眩暈がするほどの夕焼けの中で、息を切らせて坂道を駆け上がってくる柔らかな景色。


骸は目を見開いたきり、動けなくなった。


はあはあと苦しい息遣いが聞こえてきそうな表情で走っているのは、間違いなくツナヨシだった。

夢かとも思った。

でもアスファルトを蹴るのは確かな足音、目の前に辿り着いた時巻き起こった柔らかな風、陽に透ける肌。
間違いなくここにいる。

「…な、んで」

俯いて呼吸を整えていたツナヨシは、骸の声にゆっくり顔を上げた。柔らかな髪の生え際に短く汗が伝う。
ツナヨシはどこか恥ずかしそうに苦笑って、息を切らした呼吸のままぴんと背筋を伸ばした。

「…オレ…煩悩が強くなり過ぎちゃったみたいで、上にはもう置いておけないって追い出されたんだ…」

ツナヨシは余計に恥ずかしそうに眉尻を下げて、緩く両手を開いてみせた。

「だから、人間になった…」

目を見開いた骸に、ツナヨシは申し訳なさそうに自分の体を触った。

「こっちでの「想い」が強くて女の子にはなれなかったんだけど…」
「もう…そんなのは」
「え…?」

関係ない、という言葉が口から零れる前に、骸はツナヨシの細い体を抱き締めていた。

薄い胸が繰り返す呼吸、柔らかな心音、確かな体の重み、温かさ。


確かに、今、ここにいる。


驚いたように目を丸くするツナヨシの淡く色付いた頬を両手で包み込んだ。
影が重なって、ツナヨシの煌らかな瞳が見開かれたのを見てから瞼を落とした。



そして、そうすることが当たり前のように、桃色の唇にキスを。



柔らかな体温を残してそっと離した唇に、
ゆっくりと持ち上がっていく瞼から現れたツナヨシの瞳はゆったりと水分を含んで揺れて、淡く染まった頬が瞳がまるで春の息吹のようで思わず見惚れた。

ツナヨシはまたじんわりと目元を赤く染めた。


「お、おお…お帰りのキスだ…」
「…おかえりなさい」

ツナヨシの声に骸は、柔らかく微笑んだ。ツナヨシは大きく瞳を揺らし、そして、最高の笑顔を。

「ただいま!」

目を合わせ微笑んだときに、空から赤い物が降ってきた。

「いっ」
「うぐ…っ」

二人の頭にそれぞれ当たって落ちていった物は真っ赤なリンゴだった。コロコロと緩く転がって足元に止まる。
更にご、ご、ごとツナヨシの頭に連続で落ちてきてツナヨシはくちゃ、とその場に倒れた。
少し間を開けてくちゃっとなったツナヨシの頭に落ちてきたりんごを、骸は掌で受け止める。手の中で赤い光を滑らせた。ツナヨシはよたよたと体を起こしてリンゴを拾うと、ぱっと空を見上げ瞳を揺らした。

「司祭様だ」
「え?」
「これ、誕生日のときだけ貰える祝福のりんご…お祝いしてくれてるのかもしれない」
「…」

言って嬉しそうにりんごを拾うツナヨシを見て、骸も空を見上げた。眩しいほどの橙の空に、少し口元を緩めた。

「このりんご、食べるとどうにかなるんですか?」

ツナヨシが拾おうと指を伸ばしたのを先回りしてりんごを拾い上げると、ツナヨシが少し照れたように笑ってから立ち上がった。

「普通のりんごより栄養価が高い」
「…夢のないりんごですね」

まさかの答えに呆れ混じりに言うと、良からぬ気配にはっとして体をよけたらその場にりんごが落ちてきた。

(あのガキ…)

確実に骸を狙って落としたりんごに司祭の悪い笑顔を思い出し、もしまた会う機会があったら殴っておこうと心に決めた。


「これから学校だろ?」
「一緒に来ますよね」

言い切った骸にツナヨシは大きく目を開いた。

「…うん」
「りんご、みんなで食べたら美味しいでしょうね」

大きく目を見開いたままだったツナヨシは骸の言葉に大きく瞬きをして、笑った。

「うん!」

夕日の中を並んで歩く。りんごは半分こで持って、空いた手はお互いの手を握っている。ツナヨシは嬉しそうに骸の顔を覗き込む。

「…何ですか?」

どこか気恥ずかしくて憮然と片眉を持ち上げた骸に、ツナヨシはいつも通りにこにこして口を開いた。

「もう骸だけの天使だぞ!」
「何ですかそれ…!」
「そう言えば喜ぶだろうって父さんが」
「だから何なんだ君の親は・・・!」


仲良く言い合う声はきっと空の向こうまで届いている。
 



もしもあなたが望むなら
あなただけの天使にだってなれちゃうんだから!



2010.04.5
長々とお付き合いありがとうございました;0;
これからもみんなでワイワイ過ごしてくれたらいいな…v
読んでくださった方々に深い感謝を!ありがとうございましたv