例えば朝は窓から差し込む柔らかい朝の光で目を覚まし、
鳥のさえずりにまどろびを感じて、



そして隣には―・・・



そんな平凡な、非日常が欲しいと思った。




「あ?本気だったのかよ。」

半ば呆れるリボーンを尻目に綱吉は腕時計に視線を落とした。

「当たり前だろ。何のために働き詰めだったと思ってるんだ。」

「ジェット機で14時間移動して?」

「更に2時間掛けて海までバカンスに。」

いっそ清々しいくらいに綱吉は笑った。

「きっかり18時間、フルに使わせて貰うから。移動時間込みってのが納得いかないけど。」


日本から14時間掛けて飛んで来た先には会合が待っていて、
諸々の予定調整や時差のせいで会合まで18時間、間が空く。
その時間を休暇で寄越せと言われた時は冗談かと思ったが、
どうやら行き先も決まっていたらしい。

はああ、とリボーンは呆れを通り越した感嘆の溜息を吐いた。


「ちょっと前まで疲れた疲れたっつって観光にも行かなかったおめーがなぁ。」

そうだっけ?と笑って、綱吉はスーツケースを機内に残して立ち上がった。

「女か?」

「それを訊くのは無粋、だろ?リボーン。」

リボーンがプライベートを愉しむ時に使う言葉を真似ると、
リボーンはハッと楽しそうに鼻を鳴らした。

「言うようになったじゃねーか。マフィアのボスらしくなってきたって事か。
愛人の五人や六人いねーとな。」

「・・・そんなにいらないし。」

「あんま入れ上げんなよ。」

投げ遣りな忠告を笑顔で受けて、綱吉は暗くなり始めた機外へと足を向けた。



ここ最近綱吉は、酷く安定しているように見えた。


イタリアに渡った頃から綱吉は、ふと気が付くと暗い表情をしている事があったから
どんな安定剤を手に入れたのかまでは知らないが、いつも平静でいられるならそれがいいに決まっている。
だからこの際、少しでも時間を作って抜け出すくらいは大目に見てやろうと、リボーンは帽子の陰で表情を緩めた。


綱吉は足早に空港を横切って行った。

本当は走り出したいくらいだけど、いくら何でもそれは目立ち過ぎる。
ちらりと腕時計に視線を落としてから、そっと撫ぜた。
早く会いたい。
逸る気持ちと共に、綱吉は小さく微笑んだ。




どうしてもここでなくちゃいけない訳ではなかったし、初めて来る場所だったけれど、
昼間は抜けるような青い空と、コバルトブルーの海に白い建物がとても綺麗らしいから。

骸はきっと海なんか眺めないだろうから、いい機会だからバカンスらしく
隣で一緒に海でも眺めようと思った。


橙の光に浮き上がる白いホテルは恐らく、
昼間は眩いほどの白が、抜けるような青空と吸い込まれそうなくらいの青い海によく映えるのだろう。

チェックインを済ませてから、白で統一されたラウンジで骸を待った。
開け放たれたテラスから温い風が吹き込む。
腕時計を見遣ったら、時間には大分早くて苦笑いをした。

どうやら思ってる以上に気持ちが逸っているようだ。


少し後ろに控えている護衛は仕方がないので連れているが、
この際だから証人になって貰う事にした。


風に靡く白いレースのカーテンの隙間を縫うように
カツリとヒールの音を響かせて、いつの間にか目の前に現れたのは、
黒いスリットドレスに身を包んだ猫のようにしなやかな女性だった。



でも、これは幻覚。



だから、綱吉には見える。



見上げた先の、美しいオッドアイが。



「ボディチェックを。」

「女性の体に触るの?」

揶揄する色が強い声に柔らかく笑って、いつもの綱吉が少し覗く。

「いえ、ですが、」

「我儘言ってごめんね。この子も少し、神経質だから。」

非難を込めて綱吉を見遣ると、綱吉は小さく笑った。
いつもの綱吉だった。

「わざわざご苦労様。付き合わせてごめんね。
発つのは明日の午後三時だから、それまでは自由にしててね。」

しっかりと綱吉の言葉に耳を傾けてはいるけれど、隣のつんとした美人にも気がいっているようで
中身が骸だと分かっている綱吉には、それが可笑しくて仕方なかった。
ごめんね、と心の中で謝る。

行こうか、と二人で歩き出してから、綱吉は腕を差し出した。

「・・・何の真似ですか?」

「女性はエスコートするもんだろ?」

華麗な顔を嫌そうに歪めるものだから、
ほら見てるし、と背後の護衛たちに目を向けると、視線が合った。

「・・・・。」

渋々、といった具合で綱吉の腕に手を掛けるものだから、綱吉は小さく笑った。




もう夜も深いから擦れ違う人もいなくて、広い廊下はひっそりとしている。

耳に届くのは波の音だけ。
カードキーを通した小さな電子音が、異質に聞こえた。

目の前に広がっている筈の海はもう、夜の闇に塗り潰されてただ黒が広がっている。
辛うじて空に浮かぶ星が、柔らかく海を照らしているだけだった。

カードキーを差して照らされた室内はドアが閉まったのと同時に暗転した。
明かりを消すのはすぐ後ろにいる骸しかいないから、不思議に思って振り返る。

「わ!」

足を払われて投げ出された床に腹這いに押し付けられたかと思うと
捩られた腕を背中に押さえ付けられて、完全に「確保」された。

「いててて・・・!何だよ、骸!いった!」

更にくい、と腕を内側に絞られる。

「そうやって女をエスコートするのですか。」

痛みに僅か涙が滲んだ目を大きく瞬かせる。

「馬鹿・・・!俺に女っ気がないの、お前が一番よく分かってるだろ!?」

「あなたが言うと切実ですよね。」

「誰が言わせたんだよ・・・」

悪びれた風もなく綱吉の上から体を外すと、
せめてもの謝意なのか綱吉の襟首を掴んで引き起こした。

綱吉は絨毯の上に座り込んだまま、小さく苦笑した。

柔らかく濡れた温い風が、波の音を部屋に満たし、薄いカーテンを舞わせた。
薄暗い部屋はまるで海の中のような光を湛え、不便はないので明かりは消したままにした。

綱吉は床に座り込んだまま、これから海にでも入るように皮靴も靴下も脱ぎ捨てて
もうすっかり自分の姿を取り戻した骸の背中を見上げた。

骸はベットサイドのテーブルに置かれたカードを読んで、裏返してからく、と笑った。

「これ、アルコバレーノからですよ。」

綺麗に香り高く積まれたチョコレートをひとつ摘んで口に運びながら、
綱吉にメッセージカードを差し出した。

「ええ!?リボーン!?」

「あなたでは気が利かないだろうから、と。」

書かれていたのはイタリア語で、綱吉には所々しか分からないから
骸が短く訳してくれた。

「手回し早いよな・・・」

綱吉が深い溜息を吐いている間に骸は、全ての手順を無視して
シャンパンクーラーから取り出したボトルのコルクを器用に弾いた。

華奢なグラスに淡いピンクのシャンパンを注いだ。
しゅわしゅわと炭酸の弾ける音がした。

「何故急にこんな事を?」

護衛の人たちにとびっきり美人だって聞いたんじゃない?」

「ああ、それで。」


「でもそれにしたって反応早過ぎ。どれだけ冷やかしたいんだよ。」

骸は煌びやかなチョコレートの周りに飾り付けられている赤い花を無造作に掴むと、
座り込んでいる綱吉の頭の上からパラパラと落とした。
綱吉の周りに、赤い花が散る。

「お前も美人だと思うけど。」

「それはどうも。」

大した興味もなく返して、シャンパンに花びらを浮かべた。

ひとつ綱吉に渡して手を差し伸べると、綱吉は微笑んでその手を掴んだ。
引き起こしたついでに腰を抱き寄せてキスをすると、
甘いチョコレートの香りが舌の上で混ざった。

「お前ベットに土足で上がる癖、どうにかならない?」

情緒もなくグラスを傾けて喉を潤した綱吉は、
すでにベットヘッドに凭れかかって寛いでいる骸のブーツを脱がしに掛かった。

ベットに上ると骸に背を向けて足を跨いだ。
紐を解いて渾身の力でブーツを抜き取る背中を、骸は悠然と見ている。

協力する気がちっともないよな、と軽く文句を言いながらも両方脱がせて満足そうに笑った。


小動物に例えられていた日はもう遠いが、それでも名残はまだまだある。

ボンゴレ内で平素の綱吉がどんなものなのかは、人伝に聞いていたが
真っ白いラウンジに馴染むように座っていた綱吉は、間違いなくボンゴレ十代目だった。

正直、嫌いではないと思った、そんな綱吉も。
けれどこうやって年よりも大分幼く、甘い甘い砂糖菓子が溶けるように笑う綱吉の方が気に入っている。


「あなたがいるといいですね。靴が自動で脱げる。」

「それだけかよ!」

大きな目を更に大きくした綱吉の腹に腕を回し、強引に引き寄せる。

軽い体はシーツを引き攣らせながら簡単に足の間に収まって、
大きな目がちらりと色違いの瞳を見上げた。

ふわふわと睫毛を漂わせてから綱吉は、少し照れ臭そうに骸の胸に顔を寄せた。

「本当は、お前の事自慢したいんだけどな。」

その存在を確かめるように頬を擦り寄せて、柔らかく目を閉じる。

「え?」

「いいだろ俺の恋人なんだぞってさ。」


肩を越して伸びた深い夜の色の髪をそっと撫ぜて、幼い指先に絡んだ髪に唇を寄せた。
骸が引き寄せられるように丸い瞼の上にキスをすると、
はっとして見上げてきた淡い茶色の瞳はやっぱり砂糖菓子のようだった。

その目元が柔らかく赤を含む。


「あ、い、言っておくけどな・・・!
俺の純潔を捧げた以上、責任はちゃんと取って貰うからな?」

「・・・。」

頬に掛かる髪の陰で赤い唇が笑いを堪えている。

「ちょ、笑うなよ・・・!」

「あなたが言う事はいちいちおかしい。」

「・・・褒め言葉として受け取っておくよ。」

すでにほんのりと上気した頬を膨らませて、
些か子供っぽく拗ねる綱吉の顎を持ち上げて唇を合わせると
口に含んだ果実のアルコールを流し込んだ。


は、と息を詰めた微かな呼吸にさえ果実の香が溢れる。
ゆるゆると瞼を持ち上げて露わになった綱吉の瞳はすでに水分を滲ませていた。


今にも割れそうな華奢なグラスの淵に指を滑らせてから、長い指がシャンパンの表面を掻くように滑った。
零れるのを厭いもせずに伸ばされた指先が、
微かに息の上がった綱吉の小さな唇をなぞって濡らした。


「そんな事を簡単に言ってしまって大丈夫ですか?」

水の中のような室内で、骸の唇が緩く弧を描き、果実の香りが滴る小さな唇をちらりと舐める。
綱吉の濡れた瞳はいつもと変わらず骸を見詰めていた。


「あなたが僕を裏切るようであれば、あなたを殺しますよ。」


綱吉は大きく瞬きをしてからゆっくりと表情を崩していって、
最後は骸が一番気に入っている顔で笑った。


「全く問題ないよ。俺は絶対骸を裏切らないから。」


この世に「絶対」はない。

分かっている筈だが、綱吉の「絶対」は「絶対」だった。
こうも容易く世界を壊されては堪ったものではないが、悪い気はしない。


わざとらしく音を立てて首にキスを落として、綱吉のジャケットを脱がせると
綱吉は自ら向かい合う格好で骸の膝の上に座ってその唇を重ねた。


伏せられた砂糖菓子の瞳は恥じらいが強く、
色めく頬をそのままに、己のシャツのボタンをひとつひとつ外していく。


骸は黙って、ただただその淡く染まる指先を、
吐息が零れる唇を、水を湛えた瞳を見詰めている。


やがて骸の膝の上ではらりとシャツを落とすと、
骸が揶揄するように眉を持ち上げたので、抱き付いて唇を奪ってやった。


キスをしながら形勢は逆転して、骸が綱吉を自分の体の下に敷いてしまう。

甘い果実とカカオの香りがした。


すぐそこで波の音がする。

骸のしなやかな舌が、綱吉の輪郭をなぞっていく。

は、と息を詰めて込み上げる浮遊感に目を閉じれば、


「海の中みたい・・・、」


体を滑る掌の熱にはぁ、と甘い息を落として水に揺れる瞳をゆっくりと開いていった。

途端綱吉は大きな目を更に大きくしてあ!と叫んだ。

滑らかな肌を這っていた舌を止め、色気がないですね、と
さして咎める風もなく視線を起こした骸の目の前を、赤い魚が泳いでいった。

追うようにゆったりと体を起こすと、部屋には水が満ちていた。
潮の香りが強い。海水だろうか。

まるで部屋が水槽のように、燃えるような赤い魚が、鮮烈なレモンイエローの魚が、目が覚めるような青の魚が、
緩やかに波打つ水の中で泳いでいた。

「・・・ね、熱帯魚・・・??」

戸惑いがちに指を差し出すと、
淡く色付いたままの指先に赤い魚がちょこんと口を付けて離れていった。

「わ・・・!キスした・・・!」

「餌と間違えただけですよ。」

「お前なぁ・・・現実的過ぎるよ・・・」

波が強く揺れる音がして顔を上げればそこには天井はなく、
波間に星が浮かぶ空が透けて見えた。

「骸がこうしたのか?」

柔らかく指を宙で動かすと、小さな青い魚が寄ってくる。

「・・・これは、あなたの中のものですね。僕はこんなもの持ち合わせていない。」

「え、俺!?」

驚いて目を丸くした綱吉の胸に、長い指が添えられた。

「あなたの中のものが、僕を媒体に現れたのですよ。」

長い指はまるでそこに心があるかのように円を描いた。

青い魚が群れをなし、頭上で一斉に体を翻した。

「・・・そんな事、出来るんだ、」

「普通は出来ませんよ。しかも互いに無意識なら尚更。」

「そうなの!?」

「僕とあなたは繋がり易い。たまに、記憶を共有してましたね。」

柔らかい星の光で淡く染まる骸の頬にそっと手を添えて微笑んだ。

「そうだな。俺の炎だって、お前が引き出したようなものだしな。」

頬に添えられた手に擦り寄って、その手を包み込むと綱吉に視線を落とした。

骸はわざと「色々な意味で」と前置きをしてから
「僕とあなたは相性がいい。」と言った。

「あなたもそう思うでしょう?」

そんなに淡々と事実を告げるように言われると、
体の相性も、いいと言われているようだ。

恐らくそういう意味で、さすがの綱吉もそれが分かったから、ばぁっと頬を赤くした。

「肯定したと受け止めます。」


赤い頬に同じくらい赤い舌を這わせて、
綱吉の中に体を挿し入れると綱吉は、しなやかに背中を反らした。

淡い音を立てて水飛沫が散った。
細やかな飛沫に柔らかく濡らされて瞬きをすると、そこはもう元の部屋に戻っていた。


「次は、何が出て来ますかね。」


はぁ、と熱を増した吐息を混ぜるように額を合わせて呟くと
綱吉は切なく濡れた瞳をゆったりと彷徨わせ、
マグマとか出てこなきゃいいけど、と恥じ入って呟くものだから
やっぱり可笑しくて笑いを堪えた。



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