「分かってますよ。君なんかが僕のペースに合わせられるなんて少しも思いませんよ」
くそと思わず呟いてから、綱吉は開き直ってその場に正座をした。骸が片眉を持ち上げる。
「オレを連れて来る意味ないと思うんだよね。オレは家で待ってるから、お前は思う存分走って来たらいいよ」
遠慮もなく言い切ると、骸の睫毛がぴくりと揺れた。
「やはりね」
「へ!?」
「僕が家を開けているときを狙って凪に取り入る気でしょう」
「はああ!?」
腕を組んで顎を上向きに、ほら見たことかどうだ、という表情をされれば、綱吉はもう返す言葉もなく唖然と骸を見上げるしかなかった。
これはもう何を言っても駄目かもしれない、このまま骸の言う通りジョギングに付き合うことしか誤解(と言うには余りにも一方的だが)は解けないかもしれない、と至極冷静に思う。
冷静になって真剣な顔をしている綱吉の膝下を、大きく伸びた波が盛大に舐めていった。
「うおお!つ、つめた…!!」
慌てて立ち上り寒さを誤魔化すように骸に飛び掛かって、骸は反射的にその腕を掴んだので、向かい合ってお互いの腕を掴み合うような格好になった。
これからダンスでも踊りそうな格好ではたと目が合って、骸も綱吉も同時にばっと腕を離した。
骸は綱吉に背を向けて数歩歩くと、伏し目がちに振り返った。その顔は拒絶に似た憂いを乗せている。
「…僕があまりにも美形だからと言って、狙わないでくださいね?僕はそっちの気はありませんので」
「はあああ!?オレだってないから!」
「始めはみんなそう言うんですよ」
「な…!?告白されたことでもあんの!?」
あ〜嫌だ嫌だとそれこそが答えのように骸は耳を塞ぐ仕草をした。
「ちょ、だからオレだってそんな気ないし!」
嫌だ嫌だと言いながら骸は耳を塞いで歩いて行く。
聞こえてはいるだろうに、綱吉の言葉が心に届いていないようだ。
「おい!」
骸はすたすたと歩いて行く。ホモ疑惑はまったく解けていない。
何でこんなに人の話を聞かないのかと頭に来た。ホモ疑惑がそのままなんてとんでもない。
「冗談は房だけにしろ!」
渾身の言葉を背中に投げ付けると、骸がぴくりと反応したのが分かった。
綱吉が昨日から密かにずっと気になっていた房を冷たい風に靡かせながら、骸がゆっくり振り返る。
その顔は早朝に相応しくなく陰が深い。
「君こそ冗談は鼻だけにして貰えますか」
綱吉は反射的に鼻を抑えた。
別におかしいことなんてないだろう。鼻はひとつだけだ。ちょっと低いかもしれないけど。
「何か腹立つな…!!!」
綱吉は何だか腹が立って、湿って色が変わった砂浜を何度も踏んだ。
「お前こそ凪ちゃんに様付けさせたり敬語にさせたりして変態なんじゃないのか!」
「凪は誰に言われるでもなくああして僕に接しているんですよ!僕の価値が分かる賢い子ですからね!」
「可哀想に凪ちゃん…」
「あ!ほら!凪、凪って変質者か!」
「お前さ、凪ちゃんはまだ4歳だぞ!?そんな目で見る訳ないだろ!」
「君が34歳のになったら、凪は14歳ですよ!」
骸が必死に紡いだ言葉に空気が止まった。
早朝は本来静かなものだ。波の音だけが柔らかく響く。
しばらく波の音だけ二人の間を取り持って、綱吉がようやく弱い声を出した。
「…そ、それがどうしたんだよ…?」
「君が35歳になったら、凪は15歳…」
骸は絶望的な仕草で口元を手で覆った。
「だ、だから何なんだよ…」
「君がひとつ年を取れば凪もひとつ年を取る…」
骸は絶望的な表情をそのままに、顔の半分を掌で覆った。
「みんなそうだろ…!?お前ちょっと落ち着け!」
綱吉が堪り兼ねて骸の腕を掴むと、骸はその手を払い除けてそのまま綱吉の胸倉を掴みがくがく揺すった。その表情は必死だった。
そして鼻先が触れそうな距離で骸は大声を上げた。
「凪が20歳になったら!」
怒りを抑えるように唇を噛み締める。
「貴様は、40歳だ!」
「だったら!」
綱吉は骸の腕をばっと払い除け、きゅっと眉尻を上げると骸を睨み上げた。
「その頃お前は35歳だな!」
「ふざけるな!」
「上等だ!」
最早何の言い争いか分からない状態で二人はお互いを掴み合った。
「そんなに嫌だったら何でオレを凪ちゃんの遊びに相手にしたんだよ!」
骸は眉根を寄せたまま少し考えるようにしてから開き直って「知るか!」と大声を上げる。
「な、知らないってぶふっ」
残念なことに力も骸の方が数段上なので、綱吉は簡単に砂の上に転がされ押え付けられた。
けれども綱吉だって負けない。
華奢な体を利用して骸の腕の隙間からするりと抜ける。大きなトレーニングウエアも手助けになった。
隙を突いて骸に馬乗りになると、胸倉を掴み上げた。
「自分で頭脳明晰とか言ってたけど!そんなアホなことばっか言ってたら頭脳明晰が四文字熟語じゃなくなるぞ!」
「君の例えはまるでピンと来ない!」
「家でヤれ!ホモ共が!」
びっびーとけたたましいクラクションと共に罵声が降って来て国道を見上げると、昨夜のタクシーの運転手が車の窓を開けて凶悪な顔を覗かせていた。
綱吉が思わず指を指して「あ!」と言うと骸はすかさず立ち上がるものだから、必然的に綱吉は砂の上に転がった。
地面に手を付いてから走り出した骸が石を投げようとするも、タクシーは馬鹿にするようなクラクションを置いて走り出していた。
綱吉が一足遅れてタクシーに掛けてやろうと手にした砂を投げるが、風向きのせいでぜんぶ自分にかかった。
「ぶふ」
少し遠くでまたびっびーと鳴ったクラクションが癇に障る。
「何してんですか」
若干苛立ちを孕んだ呆れ声は、眉根を寄せている表情を簡単に連想させた。綱吉はといえば顔に付いた砂を猫のように叩きながら、目に入った砂を瞬きで懸命に追い出す。
「何であのおじさんはホモにしたがるんだ」
ようやく目を開けて骸に問い掛けてみたが、骸は綱吉の下半身を凝視していた。
ん?と骸の視線を辿るように目線を下げると、そこに見えたのは生足だった。
「!!!!!!!」
声にならない悲鳴を上げてしゃがみ込むと、砂浜に散らばったトレーニングウエアの下穿きと、そしてあってはならないものが視界に入り込んだ。
下着だった。
白目を剥きそうになって反射的に腿に腕を挟み込んだ。
骸の腕から抜けるときに抜け易かったのは、服が一緒に脱げていたからだったのだ。
下着が散らばっていて足剥き出しで馬乗りだったら勘違いされても致し方ない、でも疑問も残る。
「み、見た…!?見えた…!?!?」
借りた骸の上着も大分大きいので、見えないとは分かっていてもちらりとでも見えてしまったら恥ずかし過ぎる。と言うよりは悲し過ぎる。
骸にとっても悲惨な事故だろう。
骸は目元を手で覆って大いに顔を背け、ゴミを摘まむ要領で綱吉に下穿きを差し出していた。
「それ失礼だから…!って言うか俺が座ってたところ無言で払うの止めろよ…!」
指を思い切り伸ばして下着を手繰り寄せ下穿きも奪い取るようにすると、骸が綱吉の座っていた腹の辺りを手で払っていた。
無言なのが辛い。
人がいないのをちゃちゃっと確認してから急いで穿いて、骸に詰め寄った。
「な、見えてないよな…!?見えてないよな…!!」
「別に見えてないし、見たいとも思えませんけど」
「何だと!」
「どっちなんだ!」
髪の毛を掴み合っている二人の足を、冷たい波が舐めていった。
「…」
「…」
もうビショビショだ。
NEXT