千種と犬は淡いベージュの車の上に寝そべって、ぼんやりと空を見ていた。
空は淡いオレンジに変わりつつあって、
同じように淡く染まった薄い雲がゆったりと流れていく。
「暇らー・・・」
「・・・うん、」
犬はくるりとうつ伏せになって、骸のいる部屋の窓を見上げた。
「いつになったら出て来るんらー・・・」
「・・・うん、」
「今日はもう出発しないんかなー・・・」
「・・・うん、」
「適当に言ってんら!」
叩こうとした犬の手をぱしりと止めて、千種は眼鏡を押し上げた。
「これは骸さまが決めることだから。」
そうらけどー、と犬は不満そうに顎を落としてつまらなさそうに瞼を持ち上げてから、
ぴくんと睫毛を揺らして上半身を起こした。
犬の変化に、千種も体を起こす。
「あいつら、まだいたんら!」
犬の視線の先には柄の悪い男たちが、我が物顔で道を歩いている。
千種も眼鏡の奥で目を細めた。
「ちょっと締めてくる?」
「らな!暇らし。」
嬉々として車を飛び降りた犬の後に続くように、千種も車を飛び降りた。
*
ばたばたと忙しない足音と共に、何か重いものを引き摺るような音が聞こえて骸は顔を上げた。
ノックをして入って来たのは千種で、その後ろから犬がひょっこり顔を出した。
「骸しゃん!大変れふ!」
「・・・どうしました?」
扉の陰から犬がずるずると引き摺って部屋の中に放り込んだのは間違いなく中年の男で、
骸は一度瞬きをしたが、見覚えのある顔にそっと目を細めた。
「・・・まだいたのですね。」
ゆったりと椅子から立ち上がると、男はひいと声を上げて体を丸めた。
この男は五年前に潰した誘拐組織の幹部だった男だ。
命だけは見逃してやったが、またこの街で大きな顔をすると言うのなら話は別だ。
痛い目に遭ったのに戻って来るなんて、やはり頭が悪いのだと思う。
どうしてやろうと思ったところで、犬が勢い込んで骸の前まで来た。
「沢田綱吉を誘拐する予定だったらしいれふよ!」
「え?」
耳を疑ったが、男に視線を落とすと更に逃げるように体を小さくしたので間違いはなさそうだが
一度誘拐に失敗しているのにどういうつもりなんだ。
眉根を寄せた骸に、千種が眼鏡を押し上げながら言った。
「しかも、それを依頼したのが母親だそうです。」
思わず目を見開いた骸に、千種はもう一度確認するように言った。
「沢田綱吉の、母親です。」
骸はガタガタと震えている男に視線を落としてから、コートを手に取った。
「・・・少し、出掛けて来ます。連中の処分はお前たちに任せます。」
大通りを歩いて行けば、進むにつれて街は次第に整い美しさを増していく。
綱吉も大通りを通っていると言っていたから、見ていた景色は逆になる。
大通りを進むにつれて、街が暗く汚れていく。
「・・・。」
そんな中をよく、歩いて来ていたと思う。
辿り着いた屋敷は、五年前に綱吉を置きに来たときのままだった。
褐色のレンガの、高い塀がそびえ立つ。
立ち止まると守衛が近寄ってくるので、緩い速度で歩きながら塀の中をさり気なく見る。
木々の隙間から少しだけ見える大きな白い建物がきっと、屋敷の本館だ。
綱吉の部屋は離れにあると言っていた。
こうした屋敷の造りは大抵同じで、離れは大体本館の右手側にある。
塀の周りをぐるりと周るのも結構な距離なので、骸は当てを付けて右手に周った。
でも、来てどうすると言うのだろう。
傷付けた癖に、どんな顔で会えばいいのか。
そもそも会えるのか、会ってどうするのか。
長い睫毛を伏せて歩きながら自問自答を繰り返し、やがて離れと思しき建物が横手に見えた。
塀に目を向ければ、赤いレンガの角が丸くなって
埃を被ったようにくすんでいる箇所があった。
大きさは丁度、子供がひとり通れるくらい。
どうやら綱吉はそこから出入りしているようだ。
見上げると塀を映しこむ防犯用のカメラがいくつも設置されていて、
そのレンズの先を辿って骸は目を見開いた。
この角度なら、綱吉が塀に穴を開けて外に出る様が映るはずだ。
それなのになぜ、咎められない。
骸は思わず口を手で覆った。
鼓動が緩やかに増していく。
塀の向こうで子犬の鳴き声がして、骸ははっと我に返った。
ぽこりとレンガがひとつ抜けて、そこからひょっこりと顔を出したのはナッツ。
骸を見てひゃんひゃんと鳴く。
綱吉の声が聞こえた気がして、骸は街路樹の陰に体を隠して腰を落とした。
けれどはっとして下を見ると、
ナッツが千切れんばかりに尻尾を振って骸に擦り寄っていた。
骸は思わず目元を手で覆う。
ナッツはお構いなしに、伸び上がるようにして骸の膝に前足を置いて
撫でて欲しそうにきゅんきゅん鳴いている。
「ナッツ!」
今度は確かに綱吉の声がして、駆け寄ってくるような足音を確かに聞いた。
今更息を潜めても意味のないことででも、姿を現すには思考が纏まらない。
骸の足元に纏わりついていたナッツは、尻尾を振りながら綱吉の方へとととと駆けて行った。
ほんの一瞬間を置いて、綱吉がナッツを抱き上げたのが気配で分かった。
綱吉は、きっと気付いている。
けれど、何も言わない。
こちらを見ているような緩やかな気配に、骸は睫毛を伏せた。
「ナッツ、ここで少し休憩していこうか。」
目を見開いた骸の、ちょうど背中合わせになる位置に綱吉が腰を下ろした。
色を濃くした夕日が、街路樹に長い影を作る。
ふわと通り過ぎた春風が髪を揺らした。
「俺の母さん、」
揺れた髪が頬に落ちた頃、綱吉の淡い声が紡いだ言葉に心臓が締め付けられるような思いがした。
「俺を生んでくれた母さんは、俺が二歳のときに病気で死んじゃったんだ。
写真もないしほとんど覚えてないけど、優しいひとだったと思う・・・」
どこか大人びた声は、きっと寂しさを孕んでいるから。
骸は静かに目を伏せた。
綱吉に母親がいないと言うのなら、連中の口から出まかせなのだろう。
「母さんが死んで、すぐに新しい母さんが来てくれて、すぐに弟が生まれたんだ。」
僅かに落ち着き始めた心がまた、一気に乱された。
骸は再び目を見張り、確信へ向かう心を持て余す。
「弟はね、頭もいいし、かっこいいし、何でも出来るんだよ。自慢の弟なんだ。
俺はぐずだから、弟とは遊ばせて貰えないんだけどね。」
えへへ、と笑う儚い声は今にも風に吹き飛ばされそうで。
よくある話しなんだ。
家督を継ぐ長男を疎ましく思う誰かが、その長男の命を狙う話しなんて。
母親だって、病死というのは怪しいくらいだ。
庇護されるはずの子供が、勝手に家を抜け出しているのも気付いているのに咎めずにいることも、
必ず目を付けられそうな高価なネームプレートを下げさせていることも、
運よく生き延びて来た綱吉がますます疎ましく思っているだろうことも、
何もかもが、上手く繋がってしまう。
「・・・でもな、俺がいると、弟は『一番』にはなれないんだって・・・俺がいなくなって皆が仲良くなるなら俺は、
ここにいられなくなってもいいと思ってるんだ・・・俺はぐずだから、母さんたちに嫌われても仕方ないんだ、」
嫌われることに敏感な子。
何も気付いていない哀れな子。
きっとずっと酷いことを言っていた。
昨日も。
「でも・・・だから・・・骸を探していた訳じゃないんだ・・・本当に骸と一緒にいたかったんだ・・・
骸は、俺の初恋のひとだから・・・」
それでもまだ、そんなことを言ってくれる。
「俺のこと嫌いでいいから、それだけは信じて・・・」
立ち上がって綱吉に差し出した手、綱吉は差し出された骸の手に大きな目を見開いた。
けれど綱吉は涙を目に溜めたまま、ただふんわりと笑う。
骸はその笑顔に狼狽した。
「やっぱり骸は優しいな。」
綱吉は目をこしこしと擦ると、勢いよく立ち上がった。
そして、花が零れるような笑顔を。
「来てくれてありがとう!骸が優しくしてくれたから俺、強くなれるよ!」
言って綱吉は駆け出した。
ナッツが一度骸の方を振り返ってから、すぐに綱吉の後を追って行った。
差し出したままの手を、西日が橙に染め上げながらちりちりと焼く。
家柄はどんなに金を積んでも、努力をしても、手に入れられるものじゃないから、
それがないばかりに地を舐めるような思いをする人間の方が圧倒的多数で、
だから、
生まれながらにそれを手にしているのなら、みすみす失くすことはないと思っていたけれど。
風に顔を掬われるように、赤く高い塀を見上げた。
まさか、一番安全だと思っていた塀の中が、一番危険な場所だったなんて。
だからと言って家を捨てさせて、綱吉が幸せになれる保証などない。
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