ひやり、とした妙な感覚で目を覚ました。


はと目を開ければ部屋の中はまだ薄明るいだけで、夜が明けて間もないのだと分かった。

けれど、鼓動はずぐずぐと嫌な音を刻んでいる。

何か悪い夢でも見たような。


綱吉を抱き締めようと腕を伸ばすが、そこには誰もいなかった。
体を起こして部屋を見回しても、誰もいない。

綱吉が抜け出したあとに手を滑らせても冷たく、今さっき出て行った訳ではないようだった。

ただ、漠然とした予感で言うならもう戻って来ないような気さえして
骸の鼓動は嫌な音を立てるばかりだった。

妙な焦燥感は頭の、体の動きを鈍らせていく。


眠りに落ちる本当に少し前まで体を繋げていて、
その間中綱吉はずっと涙を流していた。

色を失くした頬の目元の赤、その上を酷く透明な涙が滑っていって
あまりにも悲しそうに泣くものだから、遂には骸も涙を落とした。

骸の涙にはと目を見開いた綱吉は悲しげに瞳を揺らしてから笑って、
それでも肩口に骸を押し付けるようにして抱き締めた。


旦那が泣くことはないんだよ。ぜんぶ俺が悪いんだ。
だからどうか泣かないで。悲しまないで。旦那はいつも笑っていてね。


優しい声はあやすようで、それでもその頬には涙が流れているだろうから
骸は顔を上げられずに、ただ綱吉を抱き竦めた。

なぜそんなに他人事のように言うのだろうと、ただ悲しくて
けれど今隣にいないという事は、本当に―


ふと視線を外へ投げれば番頭が、店へ帰って来る所だった。

骸は目を見開いて、何も考える事が出来ずに部屋を出た。

階段を降り切った所で番頭と出くわして、すぐに骸は口を開いた。

「綱吉はどこですか?」

番頭は緩く片眉を持ち上げた。

「俺も旦那に話があるんだ。人の出入りがあるここじゃ話せねぇから付いてきな。」

部屋に通されても尚、骸は眉根を寄せて番頭を見据える。

「綱吉は、どこですか?」

いつもの軽口は影を潜め、番頭は静かに言った。

「預かってた金は全額返す。すぐここを出て行ってくれ。」

「・・・綱吉は?」

同じ事しか繰り返さない骸に番頭は少し眉を持ち上げて、煙管を銜えた。

「二度と会いたくねぇってよ。」

「嘘ですね。」

「嘘でも冗談でも関係ねぇ。綱がそう言ったんだ。聞き届けてやるのが筋ってもんだろ。」

「想い合ってるのに?直接綱吉と話しをさせなさい。」


言い捨てるようにして立ち上がろうとした骸を手で軽く制止する。

「おいおい待てよ。マジでもうここにはいねぇんだ。」

「それならどこに?」

「診療所だ。」

「診療・・・なぜそんな所に?」


思いも寄らない場所を口に出され眉根を寄せると、番頭はやれやれと溜息を落とした。

「言うなと言われたが、引き下がらねぇなら仕方ねぇな。
アイツ、明け方に身投げしようとしたんだよ。」


一瞬にして体が心が冷えたのが分かった。


指先が微かに震えた。


なぜそんな事を、どうしてそんな事をする必要があるのかと
問い詰めたかったけれどでも、言葉が上手く出てこなくてただ体が悴んだ。


部屋に漂い始めた白く燻る煙だけが、辛うじて心を現に繋ぎ止める。


「一人で出て行った綱を不思議に思った若衆が追い掛けて、
飛び込む前に止めたから事なきを得たが。」

淡々と言葉を紡ぐ薄い唇は、怒りでもなく呆れでもなく、ただ事実だけを告げる。

「アイツは自分がいるから旦那が家業も継がねぇでこんな所でぶらぶらしてると思ってんだ。」

「彼、のせいでは・・・」

「そうだな。だがアイツはそうは思ってねぇ。自分さえいなくなりゃ、旦那が真っ当な道に戻ると信じてんだ。
想い合ってるだけで上手くいくなら世の中平和だぞ。」

それならどうしろと、とほとんど呟くように言った。

「綱は旦那が自分の事を綺麗さっぱり忘れて、まっとうな縁組をして、立派に家業を継ぐことを望んでる。」

「・・・何ですかそれ・・・なぜ君も綱吉も、僕が関係のない人間のように言うんだ・・・!」

いつもそうだった、綱吉も。

いつもいつも、何も言ってくれない。

それならあのまま引き下がっていれば、綱吉は身投げなどしようとしなかったのだろうか。
なぜ、と訊きたくても綱吉はここにはいない。

「関係ねぇからだよ。」

あっさりと言った番頭に、骸は目を見張った。

「俺はここにいる連中はみんな、子供のように思ってる。花魁の不始末は番頭の不始末だ。
だがな、ここにいる限り旦那はただの客で、綱は花魁。それだけだ。」


一度伏せられた色違いの瞳が次に前を向いた時、苛烈な色を宿していた。


「命を張ったアイツの願いは聞き届けてやんねぇのかい?」

「とてもじゃないが、聞けませんね、そんな事。」

「まぁ俺は初めから分かってたぜ。旦那が惚れた奴の願いも聞かねぇとんだ薄情者だってな。」

「薄情者、と言うのなら好きにさせて貰いますよ。」



交錯した瞳は、静かに互いを射抜き合う。


「好きにしろ。」



言い捨てるでもなく紡がれた言葉に、骸は部屋を後にした。






花街の裏の外れの診療所は場違いに木が茂り、些かくたびれた廊下はきしきしと小さな音を立てた。

「おう、生きてっか?」

無遠慮に襖を開ければ、布団にうつ伏せになっていた綱吉が少し顔を横に向けて苦笑った。

「大袈裟だよ。別に怪我してる訳じゃないのに。」

「目に見えねぇ傷もあるからな。」

綱吉はゆるゆると長い睫毛を伏せた。

「・・・旦那は?」

「あっさり帰ったぜ。もう来ねぇぞ。」

綱吉はほっと息を吐いてから、小さな唇を緩く噛んだ。

「・・・俺が悪かったんだよ。旦那といたいばっかりに、中途半端に縛り付ける真似をして、」

声を震わせた綱吉に、番頭は軽い調子で「そうかぁ?」と言った。

「旦那はああいう奴だと思うがな。」

「ううん・・・旦那は立派な人だよ。だから俺の所になんかいちゃいけない人なんだ。」

淡く色付く桃の唇が緩やかに微笑んだ。

「ねぇ、番頭さん。」

「ん?」

「下働きでも部屋持ちでも何でもするから、あそこに置いてくれないかな。」

「あ?」


無理に笑っていた唇は形を崩して、伏せられた瞳に厚い水の膜が張った。


一度開きかけた唇が震えて、綱吉はとうとう顔を歪めて涙を零した。


一度零れた涙は後から後から頬を滑って落ちていく。


「俺、旦那じゃないと駄目なんだ・・・もう、お客なんか、取れない、」


とうとう嗚咽を漏らした綱吉に小さく溜息を吐くと、乱暴にその頭を撫ぜた。


「下働きでもどぶ浚いでも好きな事やらしてやるから、もう二度とあんな真似すんじゃねぇ。次やったらぶっ殺すからな。」

ありがとう、と掠れた声で呟く綱吉の頭をまた乱暴に撫でた。



NEXT