「え・・・!そうなんですか・・・!?」

綱吉は大きな目をぱちぱちさせた。
使用人の女はにっこり笑う。

「ええ。ここで働かせて頂いてもう三年ですが、旦那様があんなにお笑いになるのは初めて見ました。」

「そうなんだ・・・いつも笑ってるのかと思ってた・・・」

この家に来てから数日経つが、骸は出会ってからずっと微笑んでるのでそういう人間なのかと思っていた。
けれど聞けば笑う事は滅多にないらしい。

「ご家族が出来たのが余程嬉しいのでしょうね。お夕飯もこちらでとる事はなかったです。」

「も、もしかして、俺のために戻って来てくれるのかな・・・?」

「そうでしょうね。」

朝も夜も一緒に食事をしている。
朝は午前中一杯は一緒にいて、午後から出勤している。
綱吉は「重役出勤」という言葉を知っていたので(前の学校で遅刻をするとよく先生に言われていた)
社長だからだろうな、としか思っていなかったが、どうやら綱吉のためらしい。
朝は早く出て行って、帰りは夜中、帰って来ない日も多かったようだ。
思い返せば夕飯後に仕事に戻っていく事もあった。

(何か、悪いな・・・)

家事はしなくていいと言わるし、新しい学校は明日からなのでここ数日は時間を持て余していた。

綱吉に与えられた部屋はもちろん家具も揃っていて、服まで用意されていた。
服のサイズもぴったりで、自分のために用意してくれたのかと思うと嬉しい反面、申し訳ない気持ちもあった。
家族なのだから遠慮しなくていいのかもしれないが、
言ってしまえばついこの間まで赤の他人だったのだ。
無邪気に甘えるには、綱吉は大人になり過ぎていた。

骸が綱吉を引き取った理由は何となく分かったつもりでいたが、
骸に会って尚更、本当に自分でよかったのかと思うようになっていた。

「父さんのために、何か出来ないかな・・・」

「ですが、綱吉さんに家事はさせないように言われておりますから。」

綱吉は苦笑した。
三十代も後半の女性に「さん」付けで呼ばれるのは居心地が悪い。
ここの人たちは骸の言い付けをきっちり守っているようだった。

「・・・父さんって、怖いですか?」

まだ数えられるくらしか一緒にいない。
綱吉の知らない面も多いだろう。
それがどんなものであれ、骸の事は知りたいと思った。
あまり笑わないなら怖いのかもしれない、とふと思い至り、恐る恐る訊いてみる。

「怖い、というのとはちょっと違うかもしれませんが・・・」

大きな目が一生懸命見上げてくるので女は思わず苦笑した。

「無闇に怒ったり怒鳴ったりするような方ではありませんので。物静かな方です。
怖いと言うなら、この人には敵わない、という怖さでしょうか。ここで働く者も、きっと会社の方々も、
お父様の事は尊敬していますよ。」

「そっか〜」

不安に揺れていた目は一転、キラキラと輝く。
綱吉は自分が褒められているような、誇らしい気持ちになった。
けれどまたすぐにしゅんとしてしまう。

(俺で良かったのかな・・・)

頭の出来も良くないし、運動神経だってない。
体も同級生に比べたら、健やかに育ったとは言い難いほど細くて背も低い。
確かに施設では年長だが、年が近くてもっと聡い子なら他にもいたのに。

女は俯く綱吉を不思議そうに眺めた。
多感な年頃だというのにとても素直なこの子は、いつも何をこんなに不安そうにしているのだろうか。
普通はこの幸運な境遇を喜ぶんじゃないだろうか。

骸の前ではそれは嬉しそうに笑っているのに、一人になると途端に俯いてしまう。
気に掛けて話し掛けると素直なこの子は笑ってくれるが、
やはり根本的な不安が垣間見えている。

「何か、不安な事がありますか?」

思い切って尋ねてみると、綱吉は分かり易く体を跳ね上げた。

「あああの、不安とかじゃないんですけど、その」

言い辛そうに口籠る綱吉に、優しく笑い掛けて先を促す。

「・・・何をしたら、その・・・父さんは喜んでくれるのかなって・・・」

あらあら、と女は微笑んだ。

父親と認めるには特殊過ぎる環境なのに、綱吉は父親として慕っているのが分かり
女は微笑ましく思った。

どうにかしてあげたいとは思うものの、こればっかりは自分が立ち入る問題ではない。
けれど今時珍しいくらい素直な子だから、力になってあげたい。

「綱吉さんが傍にいて差し上げるだけで、旦那様はお喜びになると思いますよ?」

「う、ん・・・」

「そうですね、それでしたらお夕飯を一緒に作りましょうか?」

「え・・・!いいんですか・・・!?あ、でも、怒られませんか・・・?」

思いも寄らない提案に目を輝かせたが、自分のために誰かが怒られるのも、骸に怒らせるのも酷く気が引けた。
少しくらい大丈夫だろうと女は言う。
骸は物静かだからと。
確かに怒る所は想像が出来ない。

「あの、じゃあお手伝いさせて下さい!」

綱吉はほとんど初めて包丁を持ったので、手伝える事は少なかった。
けれど骸が少しでも喜んでくれたら嬉しい。
骸に喜んで欲しい。
ただその気持ちだけだった。



広い家の中はとても静かだった。
綱吉は食事の支度をして骸の帰りを待っている。
骸がどんな反応をするか考えるだけでそわそわと落ち着きがなくなってしまう。

綱吉がこの家に来てからは、使用人はみんな夕方の早い時間に帰っていた。
だから夕飯の時はいつも骸と二人きりだ。
落ち着かなくて家の中をうろうろしてしまう。今日はテレビを点ける気にもならない。

(怒るかなぁ・・・)

怒るとは思えないが、呆れられても悲しい。
カーテンの隙間から外を覗くと、淡い外灯の中を歩く骸の姿を見付けて心臓が跳ね上がった。

(うわぁ・・・俺何でこんなドキドキしてんだろ・・・)

誤魔化すように玄関に駆け出した。
待ち切れずにドアを開けて顔を出すと、ちょうど骸がドアの前に辿り着いた所だった。

「おや。」

些か驚いたように目を瞬いた骸に、綱吉は顔を赤くしてしまった。

「お、お帰りなさい・・・!」

「ただいま。こんな時間にお出掛けですか?」

「ううん、おでむかえ・・・」

言って両手を差し出す綱吉に、骸は優しくカバンを渡す。
ちらと見上げると、骸は少し照れたように笑った。

綱吉がせがむと少し照れたようにカバンを渡す骸の顔が好きで
そんな事しなくていいと言われても、両手を差し出してしまう。

「今日はテレビを見てないのですね。珍しい。」

「うん、たまには。」

脱ぎ掛けた細身のジャケットに伸び上がって手を添える。
もっとスマートに受取りたいのだが、羨ましいという感情も湧かないほど骸は背が高い。
だからジャケットを着る時も、途中までは綱吉が持ち上げるのだが
結局最後は骸が自分で着る形になる。

「どうしたら父さんみたいに背が高くなるんだろ。」

ジャケットをハンガーに掛けながら綱吉が呟くと、骸は小さく笑った。

「高くても不便な事はありますよ。」

「そうなの?」

「色々な所に頭をぶつけたり。」

「え!父さんもぶつけたりすんの!?」

「いいえ。僕はぶつけませんが、君だったらぶつけると思いますよ?」

当たってるだけに何も言い返せず、むうと顔を赤くした綱吉にくすくす笑う。

「そこが綱吉のいい所です。」

「うう・・・褒められてんのかな・・・」

「もちろん、褒めてますよ。」

柔らかく髪を梳いて、頬にふわりとキスを落とす。

骸はこれを挨拶だと言う。
海外での暮らしが長かったと言うし、ただのスキンシップなのだろうけど
純日本人の綱吉にとっては心臓に悪い。

顔を赤くしてぼうっとしてしまう綱吉を置いて先に席に着いているあたり、
やはりただのスキンシップなのだろうけど。

(あああ!俺、頭おかしいのかな)

自分ばかりがドキドキしているのを、少し寂しいと思うなんて。

「どうかしましたか?」

「あ、ううん!」

綱吉は思考を遮るように大きく頭を振り、気を取り直して台所に向かう。
温め直すだけなので、それくらいは綱吉にも出来る。
だけど今日は綱吉が味付けをした。
味見は何回もしてるので大丈夫だとは思うが、少しだけ不安だ。

骸が食事に口を付けるとすぐに体を乗り出した。

「美味しい・・・?」

「ええ。・・・いつもより少々味が濃い気もしますが。」

ああ、と綱吉は肩を落とした。
骸は目を瞬いた。

「もしかして、綱吉が?」

「うん、そうなんだけどね・・・」

溜息を吐いて骸を見上げて、どきりとした。

とても、嬉しそうに笑っていたから。

「あ・・・」

「とても、美味しいですよ。」

触れてはいけないと思っていた骸の長い指が、綱吉の頬に柔らかく触れる。

「う、うん・・・あ、でもほとんど藤森さんがやってて、俺はただ横で見てたっていうか
味付けは教えて貰ってやったんだけど、・・・・?」

掠める程度に触れていた指先が、きちりと強張った気がして綱吉は顔を上げた。

「・・・一緒に?」

空気の流れが変わった気がした。
綱吉は言い付けの事を思い出してはっとした。

「藤森さんの事は怒らないで・・・!俺が無理矢理お願いしたから、断れなかっただけだから・・・!」

一瞬だけ骸の笑みが消えた。

骸はすぐににこりと笑うが、綱吉は血の気が引いていくのが分かった。
傍から見ればいつも通りの骸の笑みは、しかし綱吉には貼り付いているだけに見えた。

「父さ・・・」

「今日はあまり食欲がないので部屋に戻ります。家の電話も出なくていいですからね。」

静かに席を立ってジャケットを取ると、そのまま部屋を出て行った。
綱吉は動けなくて、骸を目で追う事しか出来なかった。

(怒った・・・?)

言うならば静かな怒りとでも言うのだろうか。
苛烈なものではないが、冷たい拒絶は綱吉の心を竦ませた。

つんと鼻の奥が痛んで、目の縁にじわりと涙が滲んだ。

(怒る、よな・・・勝手な事したんだもん・・・・)

家事をしなくていいと言ったのはきっと、綱吉を思っての事だろうし
使用人たちも今まで言い付けを守ってきただろうに
それを綱吉の我儘で崩したのだ。

謝りたいけれど、体が動かない。
冷たい目を向けられるのが怖かった。

気付くと丸い頬に涙が伝った。

綱吉は慌てて頬を拭う。

家の中は酷く静かで、酷く寂しかった。

テーブルの上をそのままにしておく訳にもいかないので、とりあえず冷蔵庫に片付ける。
その間も意識してないのにぽろぽろ涙が零れてしまった。

骸が部屋を出る気配は全くない。
自分の部屋に戻っても、落ち着かない。このままでいるのがとても嫌だった。
悪い事をしたのは自分なのだ。
冷たくされてもちゃんと謝りたいと思った。

けれどやはり怖くて、骸の部屋に行きかけては引き返した。
さんざん躊躇ったが、意を決して骸の寝室のドアを叩いた。
返事がない。
もう一度叩きかけて手を止めた。

(寝ちゃったかな・・・)

起こすのも悪いと思い、引き返し掛けた時に隣の書斎の扉が開いた。

「綱吉?」

「あ」

骸の姿を見た途端、言葉に詰まってしまった。
少し距離を置いたまま、骸はじっと綱吉を見ている。

「どうしました?」

優しく促す声は、いつもの骸の声だった。

「あ、あの、約束破ってごめんなさい・・・!」

「約束?」

「家事しなくていいって言ってくれたのに・・・勝手にしたから父さん嫌だったかと思って、それで」

また涙が滲んでくる。
人前では泣かないと決めていたのに、いじめられた時でさえ泣かなかったのに。

「ごめんなさい・・・!それだけ言いたくて」

泣き落しのようになるのが嫌で逃げるように背を向けると、不意に腕を掴まれた。
強引に引き寄せられれば、綱吉に抗う術はない。
顔を見られたくなくて、俯いた。

「・・・泣いてました?」

声を出すと涙が出てきそうで、俯いたまま首を振る。

「嘘吐きですね。」

優しい声と一緒に抱き竦められて、息が詰まった。
骸から甘くて柔らかい匂いがして、胸が潰れそうになる。

「不安にさせてしまったようですね。ごめんなさい。」

大きな手が背中を辿り、息をするのも忘れた。

「大丈夫、気にしてませんよ。」

唇が頭に降りてきて、また涙が滲んだ。

「僕の事、嫌いになりましたか?」

憂いを含んだ声に、綱吉は大きく首を振った。

「嫌いになる理由なんか、ないよ・・・・」

やっとの思いで出した声はとても小さかったが、骸にはちゃんと聞こえたようだった。
良かった、と吐息混じりに呟いて、綱吉の顔を掬い上げた。

見上げた目は水分を含んで揺れていて、綱吉は心臓を掴まれたような気分になった。
息を潜めた綱吉の顔に、キスを落とす。
柔らかく、優しく、ついばむようにゆっくりと、頬や額に何度もキスを繰り返した。

「父さん・・・」

戸惑う綱吉の鼓動は跳ね上がっていった。
涙の滲んだ目元に甘く吸い付かれて、綱吉はふるりと小さく震えた。

そんな反応をしてしまった自分にはっと我に帰る。

「あ、お、遅くにごめんね・・・!おやすみ!」

綱吉は逃げるように骸の腕を擦り抜けて駆け出した。

おやすみなさい、と骸の甘い声を背中で聞いた。

部屋の電気も点けずにベットに潜り込む。
冷えた布団の中は、体温ですぐに温かくなってしまった。

鼓動が速い。

骸の唇が触れた部分から火が出そうだった。

(・・・顔、熱い・・)

綱吉はその熱を誤魔化すように丸まって、きつく目を閉じた。




08.12.21                                                                      NEXT