骸は早目に官庁を出て綱吉を迎えに行った。
綱吉の誤解を解きたいと切実に思いながらも、二人で出掛けることが嬉しくて仕方がないのも事実だった。

出掛けると言っても晩餐会だが、その後は二人で外出する約束になっている。初めてのことだ。

実際今日は楽しみ過ぎて、朝日もまだ昇らない午前3時に起き出したくらいだった。
贈った結婚指輪は骸からしてみればウニのお礼だったけれど、綱吉の目にどう映ったのかは、知ることは出来ない。

これ以上不用意に好きだなどと告げたら、余計綱吉が離れて行きそうで言えなかった。
もやもやと霧のかかった気持ちになるが、自分の薬指と綱吉の薬指に揃いの指輪が嵌っているのを見ると堪らない気持ちにもなる。

浮き沈みが激しくなった感情はそれでも、綱吉が笑えばすべて吹き飛んだ。
どうすれば喜んでくれるのか考えるのは苦ではなく、骸からしてみれば至極当たり前のことだったし、幸せなことだった。

「では、行きましょうか。」

会館の入り口で綱吉に手を差し伸べると、小さな青蛙を渡された。

「・・・。」

どこで捕まえたのかと思っている内に蛙は骸の掌からぴょんと飛んで行った。

「じゃ、行こうか。」

どこかすっきりした笑顔の綱吉はすたすたと歩いて行った。
まあ綱吉がすっきりしたならよしとする。青蛙なんて可愛いものじゃないか。ウシガエルまでなら許容範囲だ。ただし、綱吉に限る。

守衛に招待状を見せて中まで入り、真赤の絨毯を踏んで会場に入ると、綱吉はわあと小さく声を漏らすから骸は嬉しくなって微笑んだ。
煌びやかな装飾品がまだ料理の乗らないテーブルを彩って、高い天井から吊るされたシャンデリアが会場を光で縁取っている。

もう随分と人が集まっていて、骸は綱吉を連れて主催の総帥に挨拶に向かった。
まぁ総帥もその内引き摺り下ろすけど。

総帥と夫人は骸に気付くと、ゆったりと席を立ち上がった。

「自ら出席とは、珍しいことがあるものだね。」

「妻の綱吉を紹介に上がりました。」

言うと骸の少し後ろに立っている綱吉は柔らかく頭を垂れた。

「綱吉です。」

「妻の」と言ってくれたらいいのに、と思っていると総帥が口を開いた。

「よく深窓の御曹司を射止められたね。これで六道の家も安泰だな。」

余計なことをと表情にこそ出さないが内心殺気立っていると、夫人は他人事ながら心配そうに口を開いた。

「でも確か中将さまは一人息子ではありませんでした?婿入りなどしたらご実家がお困りでしょう。」

骸の両親は骸が中将になってそれはもう諸手を挙げて喜んでいて、でも沢田の家に婿入りすると話したら冗談だろうとげらげら笑っていた。
けれど日が経つにつれて現実味を帯びて来ると、ほとんど放心していた。

終いには「二度と帰って来るな・・・!」と罵声にしか聞こえない激励を受けて(追い出されないようにしっかりやれと言いたかったらしい)、最近ようやく落ち着いたのか、跡取りは養子を取るから心配するなと連絡があったばかりだった。

けれどそこまで詳しく説明する必要もないだろうと、あしらう言葉を口にしようとしたとき、綱吉の方が先に口を開いた。

「夫は沢田の家の繁栄のために苦渋の決断をしております。快く送り出してくださった六道の両親にも、家族共々深く感謝しております。」

ほんの少したどたどしくも、真摯に紡がれた言葉に「そうでしたか、」と目の前の夫婦は納得したようだった。

「六道は立派だな。」

総帥に褒められたがそれよりも「今は沢田です。」とさり気なく訂正しておいた。

骸は感動した。
何てよく出来た妻なんだ。知ってたけれど。

「それにしてもお若いのにしっかりした奥様ね。」

当たり前だ。骸は綱吉にしか向けたことがないような笑顔で言った。


「よく出来た妻で。」


総帥夫婦は目の前の若い夫婦にぱちりと瞬きをしてから、思わず微笑んだ。

それから骸はとにかく綱吉を見せびらかした。
名前も顔も知らない人にまで紹介して回った。

「よく出来た妻です。」と紹介して「可愛いでしょう。」と言っておいて「可愛らしい奥様ですね。」と言われれば「当たり前だ。手出ししたら命はないと思え。」と真顔で脅迫して震え上がらせたりして忙しくて、綱吉の唇が微かに引き攣り始めていたのにも気付かなかった。

「骸・・・ちょっと・・・」

我慢も限界を超えた綱吉が骸の袖を引っ張ってバルコニーまで骸を連れ出した。
誰もいないのを確認してから綱吉は眉を吊り上げて腕組みをした。

「もう、何考えてんだよ・・・!」

「そうですね、そろそろ茶屋へ行きましょうか。」

「噛みあってないんだけど・・・!社交辞令を真に受けるなって言ってるの!」

「社交辞令、ですか?」

「そうだよ!俺がその・・・か、可愛いとか社交辞令に決まってるだろ!何であんな言い方するんだよ!よく出来た妻ですって何!?」

「社交辞令ではありませんよ。」

「何ムッとしてんの・・・!?意味分かんない!」

何もかも諦めた綱吉は駆け出した。

「待ちなさい!」

「や!」

待てと言って待つ綱吉ではないので後を追い掛けるが、会場のの中に入ってしまって小回りの利く綱吉は上手く人の間をすり抜けて行ってしまう。
けれどやがて綱吉は見知らぬ軍服の男性とぶつかってしまった。

「ごめんなさい・・・!」

「いいえ。」

慌てて謝ると見上げた先で男性が微笑んだ。

「お一人ですか?」

骸は完全に頭に来た。お一人ですか、なんて口説くための挨拶のようなものではないか。

「僕の妻に何か?」

けれど騒ぎを起こしてせっかくの綱吉との初めての外出を台無しにしたくなかったので、肩を掴んで静かに睨んでやる程度に留めた。
男性は失礼しましたと慌てて去って行く。

骸が溜息と共に綱吉を振り返ると、綱吉が胸に飛び込んで来た。

大きく心臓が跳ね上がって、思考が停止したのと同時に脛に鈍痛が走った。

「・・・っ、」

人がたくさんいるので、脛を蹴り上げているのを誰かに見られないように密着してくれたのだろう。

さすがよく出来た嫁だ。骸は屈まなかった。主に軍人のプライドで。
骸は脛の痛さにも負けず、綱吉の肩を柔らかく掴んで目線を合わせた。

「せめて僕の見えるところにいなさい。」

ぷうと頬を膨らませた綱吉はまたぱたたと駆けて行く。
追い掛けようとして呼び止められたので振り返ると、そこにいたのは大将夫婦だった。

「・・・今舌打ちしたかね?」

「いえ、しておりません。」

舌打ちしたのに平然と否定して骸は浅く頭を垂れた。

「ご挨拶が遅れました。」

「私たちも今来た所だ。」

骸は綱吉を探すべく視線を流すと、綱吉は少し離れたテーブルに座り、給仕が運んで来たパウンドケーキに口元を綻ばせていた。
きちんと目の届くところにいて少し安心して、嬉しそうにケーキを食べる綱吉に思わず口元を綻ばせた。

「あちらが奥様かしら?」

「はい。呼んで参ります。」

「ああ、構わんよ。あんなに美味しそうに食べられては中断させるのが忍びない。」

骸が綱吉を自慢したくてうずうずし出したとき、人の間を縫うように近付いて来た若い娘がいた。

「中将さま、お久し振りでございます。」

ドレスを身に纏った娘は柔らかく笑った。
正直覚えていない。

「娘だよ。忘れてしまったかな?見合いも申し込んだのに薄情だな。」

(ああ、)

大将に揶揄して言われて思い出した。そう言えば写真も見ずに断ったし、どこかで会ったのかもしれないが覚えていなかった。
だって骸は綱吉にしか興味がない。

「ご結婚されたそうですね。悲しいですわ。でも私、中将さまなら愛人でも構いませんの。」

言って娘は柔らかに眉尻を下げて愛らしく見上げて来た。
この娘は自分の容姿が優れている自覚があって、それをどう魅せたらいいかも分かっているのだろう。

きっとほとんどの男はこれで落ちるだろうけど、骸はそんな娘を温度のない瞳で見下ろしてこう思った。

(綱吉は可愛い。)

比べるまでに至らない。要は綱吉にしか興味がない。

大将は娘をみっともない、とやんわりと諌めたが、本気ではないようだ。
いつか骸に引き摺り下ろされることが分かっているのだろう。

総帥には娘しかいないので、可愛い娘の婿にわざわざ妾を持たせる訳はないだろうから、己の地位を保つなら娘を骸に差し出すのが一番だ。

(そろそろ茶屋に行こう。)

けれど残念なことに骸は綱吉にしか興味がない。

誰かに綱吉を自慢し忘れてないか思い返していると、夫人があら、と声を漏らした。

「奥様がいらっしゃらないわよ。」

はっとして視線を上げるとそこにいたはずの綱吉の姿が消えていた。
骸は目を見張ると挨拶も忘れてすぐに駆け出した。骸を呼び止める娘の声がしたが、骸の耳には届かなかった。

人ごみを掻き分けるようにして視線を流すも、綱吉の姿はどこにもない。
妙な連中に連れて行かれたのではと、思考は最悪のことばかり考える。

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