雨は次第に強くなっていった。
屋敷に戻った骸に、凪が柔らかなタオルをそっと差し出した。
「凪、」
凪は申し訳なさそうに睫毛を伏せた。
「座敷での話し、ぜんぶ聞いてました・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・まぁそうですよね・・・」
「さっきは申し訳ありませんでした・・・カッとなって、つい骸さまがどれだけボスに変質的に思い詰めているか忘れてしまいました・・・危うく殺してしまうところでした・・・」
「・・・・・・変質的に思い詰めているかどうかは置いておいて、カッとなって殺しそうになる癖は直しましょう。」
はい、と凪は素直に返事をして眉尻を下げた。
「あの子供は?」
「私の部屋で寝てます。」
「綱吉は・・・、」
そこまで言って骸は口を閉じた。
もしかしたら凪は綱吉の想い人を知っているかもしれない。けれど凪に訊くのは筋違いだろうし、何より、聞くのが恐ろしい。
「ボスはお部屋です。」
骸の胸中を知ってか知らずか、先に答えた凪に骸は微笑んだ。
「・・・分かりました。天候が悪くなりそうなので、戸締りはきちんとしておいてください。」
凪ははい、と返事をしてぱたぱたと駆けて行った。
骸は綱吉のいる2階をそっと見上げた。
けれど今はどう声を掛けたらいいのかまるで分からなくて、骸は混濁する思考を紛らわせるようにそっと瞼を落とした。
*
夜が更けるにつれて、雨脚は激しくなり、荒れた風が窓を強く叩いた。
骸は眠れずにソファに身を沈めて、強い風に流されていく雨ばかりを見ていた。
好きな人がいるのなら、その人間と一緒にさせてやるのが綱吉にとって一番いいのだろう。きっとそれが綱吉を幸せにする。
骸は睫毛を頬に落とした。
けれど、手放してやる気になれない。自分といることが綱吉にとって不幸だと分かっても、それでも自由にさせてやれない。
綱吉を幸せにしたいのに、矛盾する思考は止め処なく溢れてきてしまう。
苦悩に眉を潜めたところで、ふと屋敷の明かりが消えた。
嵐に電線が切れたのかもしれない。綱吉が気になってソファから立ち上がると、凪が階段を駆け下りて来た。その手にはなぜかレインコートを持っていた。
「どうしました?」
「骸さま、ボスの傍にいてください。」
「え?」
薄暗い中でも分かるほど凪の頬は白くて、骸は嫌な予感に階段を駆け上がった。
許可もなく綱吉の部屋の扉を開け、ベッドに横になっている綱吉に目を向けた。
控えめなランプの明かりに照らされた綱吉の顔色はとても悪く、静かに瞼を落として儚い呼吸を繰り返していた。
「綱吉、」
あまりのことに骸は駆け寄って思わず名を呼ぶが、反応がなかった。
「熱が出てしまって、発作も起こしてしまったんです。」
はっと振り返ると、凪はもうレインコートを着込んでいた。
「発作の薬を、」
凪は緩く首を振った。
「熱があるから駄目なんです。」
「それなら解熱剤は?」
凪はまた緩く首を振る。
「解熱剤は胸に良くないんです。」
骸は目を見張った。
「それなら、どうしろと」
「電話線も切れてしまっているので、お医者さまを呼んで来ます。」
「この雨の中を!?僕が車を出します。」
「川が氾濫しているかもしれません。車は危険です。」
「それなら尚のこと歩いてなんて行かせられません。僕が行きます。」
凪は首を振って、そしてとても穏やかに微笑んだので、骸は目を見開いた。
「ボスを大切に思っているのは骸さまだけじゃないの。私に行かせてください。」
意志の強い瞳はもう、何を言っても聞かないだろう。骸は諦めたように唇を引き結んだ。
「・・・気を付けて。凪に何かあったら、綱吉が悲しむ。」
はい、と凪は嬉しそうに笑ってレインコートの前を閉じると、急ぐように部屋を出た。
綱吉に視線を戻す。胸が痛くなるくらい顔色が悪かった。
骸は凪が用意したタオルを、洗面器に張ってある水で冷やして硬く絞り、綱吉の汗を拭ってから額に乗せた。
硬く閉じられた綱吉の睫毛が微かに動いて、骸は思わず体を乗り出すが、声を掛けるのを躊躇った。
ベッドの脇に座り込んでランプの火を落とすと、部屋の中には外の嵐の喧騒が入り込んできた。
空に居座る黒い雲は晴れる気配もない。
「・・・僕は無力だ。」
思わず呟いた。
だって、愛しい人が苦しんでいるのに何も出来ない。これなら医者になった方がまだ、綱吉の役に立っていたかもしれない。
(僕のせいだ、)
体が弱いのを知っていたのに、元気だからと油断した。いらない心労を掛けた。
この結婚生活も、綱吉にとっては苦痛でしかなかったんじゃないだろうか。
「綱吉・・・」
名前を呼ぶことしか出来ない。
汗で頬に張り付いた髪をそっと落とす。
「・・・綱吉、」
手を握るととても冷たくて、骸は強く頬に睫毛を落とした。
瞼の裏でじわりと滲んだ瞳から落ちた涙が頬を滑った。
強く手を握る。まるで引き止めるように。
「綱吉・・・僕は君がいないと死んでしまう・・・」
骸の頬を滑り始めた涙が綱吉の白い手に落ちた。
「君がいないと生きている意味がない・・・」
今はもう、祈るしか出来ない。
*
どれくらいそうしていたのか、風も雨も少しだけ落ち着きを取り戻してきていた。
握っていた手が微かに動いて、そっと握り返してきた気がしてはっと顔を上げると、ベッドに体を横たえたままの綱吉が骸を見て微笑んでいた。
骸は綱吉の柔らかな微笑みに、ただ言葉も出なくて目を見張った。
「綱、吉・・・」
呼び掛けるともう片方の手が伸びてきて、そっと骸の髪を撫でるから、骸は目を見張った。
「ぐちゃぐちゃ・・・」
言ってぷっと吹き出した綱吉は、あちこちに跳ねるような骸の髪を撫でる。優しい指先が、静かに骸の髪を往復する。
綱吉が笑い掛けてくれている。骸はただただ呆然として思わず呟いた。
「・・・夢?」
髪を撫でていた手が今度は髪を強く引っ張った。
「・・・っ」
「痛かった?」
「・・・はい。夢ではないようですね・・・今水を・・・、!」
立ち上がろうと離し掛けた手を綱吉が強く握るから、骸は目を見張って動きを止めた。
「覚えてるよ。」
「・・・え?」
天井を見ていた綱吉はそっと骸に視線を投げて、微笑んだ。
「具合が悪くなった俺を介抱してくれたよね。とても暑い、夏の日だったよね。」
すべてが静寂に包まれた気がした。
そして思い出すのは肌を焦がすような灼熱の温度と蝉の声。陽炎の立ち上る道の向こうに、綱吉がいた。
「花を贈ってくれていたよね。あの日の学生さんだってすぐに分かったよ。たまに、後ろ姿を見掛けていたから。」
綱吉は思い出すように睫毛を伏せてから、睫毛を持ち上げて天井を見上げ、そして呟くように、けれどはっきりと言った。
「気持ち悪かった。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・まぁそうですよね。」
見方を変えれば名乗りもせずにしつこく付き纏っていたことになる訳だからと、無理矢理自分を納得させて遠い目になった。
けれどくす、と笑う声が聞こえたから、はっとして綱吉を見遣ると、やはり綱吉は微笑んでいた。
「嘘。ごめんね。・・・・本当は凄く、嬉しかったんだ。」
合わさった掌が、緩やかに握り直されて、心が握られたように胸が苦しくなる。骸は思わず名前を呼ぶ。
「綱吉、」
「・・・骸が結婚を申し込んでくれるか分からなかったけど、でも、俺は骸以外の人とは結婚しないって、勝手に決めてたんだ。俺を庇って立ってくれていたとき、横になりながらずっと、骸の背中ばっかり見てた。何て優しい人なんだろう、何て頼りになる人なんだろうって。」
綱吉は微笑んだまま、恥ずかしそうに睫毛を揺らして目を伏せた。
「だから骸から結婚を申し込まれた時は、夢じゃないかと思った。本当にこんなことあっていいのかなって。」
夢みたいだ、と言うのなら今の自分だってそうだった。
まさか綱吉がそんな風に思ってくれていたなんて。
言葉も出なくて綱吉の声にすべての感情を持って行かれて、綱吉の睫毛がふわふわと揺れるのをただ見ていた。
「・・・でも、骸があんなこと言うから、今までのことはぜんぶそのためだったのかなって思っちゃって・・・」
ふと悲しそうな色を湛えた綱吉の瞳に、骸は胸が痛くなってそっと睫毛を伏せた。
「・・・・それについてはもう、弁解の余地がありません・・・ずっと想いを寄せていた君と一緒になれるかもしれないと思ったら舞い上がってしまって、」
「うん。」
あっさりと頷いた綱吉に骸は目を見張った。
「一緒に暮らしてみて分かったんだけど、骸って間抜けなところあるよね。」
そしてあっさりと言い切った綱吉に、骸は遠い目になった。
「・・・君の前だけだと思いますが、自分でも驚いてます・・・」
くす、と笑う声に引かれるように視線を綱吉に向ければ、綱吉は微笑んで、揺るがない瞳で骸を見上げていた。
骸は呼吸を忘れる。
「俺は骸を信じる。」
嬉しい、なんて言葉では言い表せない感情が胸を焦がす。
すべてが間違いではなかったのだと確信して、そして込み上げる愛おしさに胸が焼き切れそうになる。
そっと伸びてきた細い指先が、骸の頬の涙の跡を辿った。
「びっくりした・・・泣くんだもん。」
「・・・僕には、君しかいなくて・・・君がいなくなったら僕は・・・」
頬を辿る指先に気を取られてほとんど呟くように言うと、綱吉はくすっと笑った。
緩く咳き込んだ綱吉にはっとして、せめてもと手を擦る。
「大丈夫ですか?」
「うん、大分落ち着いた・・・死んじゃうなんて言われたら、おちおち死んでられないよ。六道の御両親に顔向け出来なくなっちゃう。」
「綱吉、」
「傷付けてごめん、試すようなことばっかり言って、ごめん・・・」
骸は幾度となく首を振り、綱吉の手を両手で握った。
「・・・いいえ、悪いのは、僕だから。」
「・・・やっぱり骸は、俺が好きになった骸だった。」
「それは、」
「うん。俺の好きな人は、骸だよ。」
嵐の喧騒さえ声を顰めて、ただ溢れてくる幸せに目が眩む。
握り合った手は、強く結ばれる。
嵐が来ても、もう二度とこの手が離れることがないように。
廊下で部屋の扉に耳を付けていた凪とフランは耳を外した。
「人騒がせな夫婦ですねー」
「先生、下でちょっと待ってて・・・子作りが始まるかも・・・」
「は!?」
嵐の中を引っ張って来た先生が素っ頓狂な声を上げれば、凪に実力行使で黙らせられて下の階に引き摺られて行く。
フランはそれを見てまた「人騒がせな夫婦ですねー」と言って凪の後ろを着いて行った。
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