玄関に立ったツナヨシの前にペッと濡れたタオルが落とされた。

「足、ちゃんと拭いてから上がってください。」

「うん!」

タオルに足を乗せると温かくて、
かじかんだ足が溶けていくようだった。

骸は忌々しげに溜息を落とした。

「部屋の前でそんな恰好で泣かれると迷惑なんですよね。
通報でもされたらそれこそ面倒な事に」

ツナヨシはタオルでこしこしと足を擦ると、
部屋の中に駆け出そうとした。
そんなツナヨシの襟首をおもむろに掴み上げると
華奢な体はそれだけでぷらりと宙に浮いてしまった。

「人の話し・・・聞いてますか・・・?」
 
凶悪な目でじろりと睨むと、
ツナヨシは恐怖で足を引き攣らせながらも
一生懸命首を振った。
 
「ぜ、全然聞いてなかった・・・!!」
 
「随分素直ですね・・・!
とりあえずちゃんと足を拭け!」
 
「うん・・・!」
 
解放されるとツナヨシは一生懸命足を拭いた。
だって腕組みをした骸がものすごく凶悪な顔で見下ろしているんだもの。
拭かなかったら締め上げられる気がするのはきっと思い過ごしじゃない。
 
やっとお許しを頂けて、部屋に一歩足を踏み入れた。
 
「ああ・・・」
 
ツナヨシは感嘆の声を上げた

「壁がある・・・屋根もある・・・寒くない・・・!」

「馬鹿にしてるのか・・・!」

「ううん、馬鹿になんかしてないって!骸は凄いなぁ!」

心の底から感心しているようでツナヨシは頬を染めて笑う。
骸はもう面倒になったのでああそうですかと適当に返事をした。

「ああ、ちょっと。まだそっちには行かないで下さい。」

骸は腕まくりをしながら浴室のドアを開けた。
骸に呼ばれるまま近付いて行くと、
勢い良く出る水の音と一緒に温かい湯気が広がった。

「先に風呂に入って下さい。
汚い君を部屋に入れたくない。」

「フロ?」

にこにこしたまま首を傾げるツナヨシに、酷く嫌な予感がした。

「・・・まさか知らない、とは言いませんよね?」

知らない、とふるふると首を振ったツナヨシに
骸は顔を引き攣らせた。

「・・・知らないって、一度も入った事がないという事ですか?」

まさかと思いながらも一応訊いてみる。
だけど返ってくる答えなんて決まっている。

「うん。」

骸は頭の血管が切れそうになった。

「あり得ないでしょう!?」

「え・・・?そうなの・・・?」

わたわたするツナヨシを引っ叩きたくもなった。
ツナヨシの肌は白くてつやつやしていて
とてもじゃないが生まれてこの方、
一度も風呂に入った事がないようには見えない。
むしろ清潔感がある。

骸は引き攣った口元を押さえた。
このまま引き攣らせてたら筋肉が千切れてしまいそうだ。
 
ここは相手にしないに限る。
いちいち腹を立ててたら頭の血管へのダメージも大きそうなので
ちょっと我慢してさっさと終わらせればいいんだ。
この年で脳溢血とかシャレにならない。
 
「骸、顔が変になってる。」
 
ははは、と笑われてさっそく血管が切れそうになった。
 
「誰のせいだ・・・!いいから来なさい!」
 
呼ばれてツナヨシは嬉しそうに骸の横に立った。
 
「いいですか。ここに浸かって」
 
バスタブの蓋を全部取って見せると、
ツナヨシはうんうんと頷きながら骸にぴったりとくっついた。
骸はぞわりと全身に鳥肌を立てた。
 
「くっつくな・・・!!気持ち悪い・・・!!」
 
ツナヨシの顔面を鷲掴みにして引き剥がす。
それと同時に隣からドンっ、と大きな音がして
驚いたツナヨシはすっ転んだ。
 
「な、何の音・・・!?」

骸は深い溜息と共に座り込んだ。

「恐らく煩いから隣の人間が壁を叩いたのでしょう。」

隣に誰が住んでいるかなんて知らないが
こんな形でも関わりたくなかったのに。

骸の眉間の皺は一層深くなるが、
ツナヨシはそんな事にも気付いている様子はない。

よたよたと立ち上がろうとするツナヨシの額を腹いせで小突くと
見事にすっ転んでうう、とぐずった。

骸はふっと薄暗い笑みを浮かべてすぐに我に返った。

(何をしてるんだ僕は・・・!)

全くとんでもないものを家に上げてしまった。
犬か猫と思っても嫌なのにこれ以上手を煩わされたくない。

かと言って、自称風呂に入っていない人間に
部屋をウロウロされるのはもっと嫌だ。

「・・・いいですか。一度しか言いません。心して聞け。」

さっきよりも更に顔の筋肉がおかしな事になっている骸に、
ツナヨシはびくりと体を引き攣らせてから
もう怒らせないようにぴんと姿勢を正した。

「ここに入って」

ツナヨシは言われるまま湯船に足を突っ込んだ。

「服は脱ぐ・・・!」

バッと服を脱ぎ掛けたので骸は勢い良く裾を下げた。

「僕が出て行ってから脱げ・・・・!」

「う、うん・・・!」

ツナヨシは復習するように口の中で動作を確認した。

「これで体を洗って」

渡された石鹸とネットを交互に見てから
石鹸で手の甲を擦った。

「洗ったぞ!」

誇らしげに石鹸を掲げて満面の笑みを浮かべたツナヨシだが
満面の笑みはみるみるうちに青褪めていった。
骸の口元が大変な事になっている。

怒られる。
ああ怒られる怒られる。



(何で僕がこんな事・・・!)

骸は凄まじい勢いでネットで石鹸を泡立てている。
そうでもしないと今にもツナヨシを水没させてしまいそうだからだ。
ツナヨシなんかのために人生棒に振る気はさらさらない。
だから懸命に意識を泡に集中させている。
石鹸の表面はすでにえぐれ始めていた。

ツナヨシはちょこんとバスタブに収まっている。
お湯に浸かるのが楽しくて、
たまに口元までお湯に沈めてぷくぷく息を吐いている。

その度に骸にキッと睨まれて
ツナヨシはびくっと体を強張らせた。


「骸は服着たまま入るのか?」

「ちょっ、と、濡れた手で触らないで下さい。
君が上がってから入ります。」

頭に来るのでなるべくツナヨシを視界に入れないようにする。
ツナヨシは大人しく腕を引っ込めてバスタブに戻した。

骸が憤りを石鹸にぶつけている様を、
ツナヨシはにこにこして眺めていた。

心細くて怖かったから、
今骸がこうして一緒にいてくれるのが凄く嬉しかった。

「骸、骸、」

「用がないなら呼ばないで下さい。」

ぴしゃりと跳ね返されて、
ツナヨシはう〜んと唸りながら
骸を呼ぶ用事を考えた。

「骸!俺、もうすぐみっつになるんだ。」

「ああ、知能がですか。」

「や、やだな・・・体もだよ・・・」

ツナヨシは赤く色付いた頬を更に染めて、
ぷくぷくとバスタブに口元を浸した。


そこ照れるところじゃないだろ。


という言葉は針を飲む思いで飲み込んだ。
まともに相手なんかしてられない。
骸は泡立てる手の速度を更に速めた。

「骸はいくつなの?」

骸ははあ、と溜息を吐いて
黙らせるためにさっさと答えた。

「・・・17ですよ。」

「そうなんだ!」

興味深そうに体を乗り出してきたツナヨシの目に、
泡を突っ込みたい。

「はいはい、どうせ老けてますよ。」

「ううん、老けてるとかじゃなくて
酸いも甘いも知ってるような貫禄?」

「何でそんな言葉知ってるんだ・・・!」

言っている事はとうへんぼくだが、
受け答えはしっかりしているので
知的な障害があるようには思えなかった。

更に厄介なのは、初めから人を疑って掛かる骸でさえ
ツナヨシが嘘を言っているように見えない事だ。

無邪気な顔をして実は、なんて疑ってみても、
ツナヨシのだらしない笑顔を見ると
疑ってる自分が馬鹿に思えてしまう。

ツナヨシは苛々する骸に気付きもせずに
指を折って数を数え始めた。

「17って事は、俺より少し年上なんだな。」


どんな計算をしたらそうなるんだ。
この自称三歳が。


と言う言葉は剣山を飲む思いで飲み込んだ。
苛々するどうしよう。

何の気の迷いか分からないが、
うっかり家に上げてしまった事をとても後悔している。

こうなったらすぐに誰かに迎えに来させよう。
こんな馬鹿がいなくなったら
周囲の人間も余程慌てているだろう。

両親の話しをしたらまたとんちんかんな答えが返ってきそうなので
それは避ける事にした。

「兄弟はいますか?」

「うん、いっぱいいるけど誰とも会った事ないんだ。」

「・・・っ」

兄弟の話しは面倒そうなので止める。

「すぐに連絡が取れる友達はいますか?」

「いないよ。」

随分とあっさり言うものだから、
どんな顔で言っているのかとちらりと見ると
拍子抜けするくらい笑っていた。

「俺、ずっと一人だったから。」

「・・・そうですか。まあそんなんじゃいないでしょうね。
それなら保護者はいますか?学校の先生とか。」

「ガッコー?」

「いえ、何でもないです。保護者はいますか?」

説明をするのが面倒なので流した。

けれど学校を知らないとはどういう事だ。
兄弟にも会った事がない。友達もいない。
両親も生きてるのか何なのか分からない。
本当に一人じゃないか。

「ほごしゃほごしゃ・・・う・・・っ」

考え込んでいたようなツナヨシは突然声を詰まらせた。

「?」

怪訝に思って見遣ると、
さっきまで血色良く染まっていた頬が青褪めていて
バスタブの中なのにぶるぶる震えていた。

「あ・・・う、司祭様、ならいる、けど・・・でも
こ、怖いからヤダ・・・っ!!!」

(司祭?)

司祭、という事は教会にでも預けられているのだろうか。

「どこにいるのですか、その司祭は。」

怯えるツナヨシを無視して問い掛けると、
ツナヨシはぶるぶる震えながら天井を指差した。

「・・・っ!」

(両親と同じパターンか・・・っ)

もう駄目だ。
眩暈がする。
骸の手元では泡の塊が垂れ下がり始めている。

「恋人・・・などいる訳ありませんよね。」

「うん、いない。」

「でしょうね。訊いた僕が馬鹿でした。」

「あのな」

「今のはなかった事にしなさい。」

「うんとね」

「忘れろ。」

骸と話したくて仕方ないツナヨシは
話しをぶった切られても頑張って話した。

「俺、恋人作っちゃいけないって教わってて」

「作らない、ではなく作れない、でしょう?」

「そうそう!作れないんだ。」

本当に溜息しか出ない。
馬鹿にしてるのに全く通じていない。

「煩悩は捨てなきゃいけなくて」

「・・・はあ?」

だから何でそんな言葉を知っているんだ。
骸の目はもう生気がない。

「だから交尾しちゃいけないんだ。
司祭様が恋人は交尾しないと離れて行くから作るなって。」

すぽーん、と骸の手から石鹸が飛び出る。
綺麗な放物線を描いて天井まで上がった石鹸を
ツナヨシは目で追った。

天井にぶつかり損ねた石鹸はそのまま落ちて
タイルの上でくるくる回った。

「骸?」

俯いてわなわな震えている骸を覗き込むと
骸は手に固まった泡を投げ捨てるようにして立ち上がった。

「骸?」

「全部自分でやれ!」

「骸・・・!」

言い捨てて出て行こうとする骸を慌てて追って
バスタブから足を出した所にちょうど石鹸があってすっ転んだ。

洗面器などを巻き込んで盛大に転んだ音に反射的に振り返ると
ツナヨシは涙目でタイルの上に座り込んでいた。

「うう・・・むくろぉ・・・」

「・・・っ!」

全部見えている。
骸は絶望的な仕草で顔を手で覆った。


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